沖縄県立首里高等学校:8期 掲示板

No.266 君よ

2007/08/08(水) 20:20 - オパール」 組 オーバル ()
おおらかに笑いあって季節を過ごした君よ
かけがえのない輝いた時を生きた君よ
同い年の日々を思い出に変えて
君が思い出になってゆくのか

君よ
どんな言葉もどんな光も
ともに過した一瞬に勝るものはないよ

この想い 君に届けよ

君よ

No.265 なにと引き換えに

2007/08/02(木) 03:26 - ・ 組 カエサル ()
人類はどこへ行こうとしているのだろう。

少し前に話題になっていたバイオ燃料。
冷静な目で見ていると、人と車の食糧の奪い合いがこのままいくと本格化し、
深刻な食糧事情が発生すると思わざるを得ない。 

米国大統領推進する目標、ガソリン消費量20%をバイオ燃料に置き換える計画。
米国耕地面積の6割をとうもろこし作付けに充てなければ成り立たない。
ブラジルはサトウキビの作付けを、総耕地面積の5割に拡大して輸出する計画を推進中。
我が国においては、JOMO石油がフィリピンのレイテ島に24万ヘクタールの農地を確保したとのこと、
まさに多国籍企業が競い合ってバイオ燃料ブームを推し進めている。

このバイオ燃料ブームによって、トウモロコシ価格は2010年までに20%、20年までに41%上昇すると言われている。
一方価格が1%上昇すると食糧を満足に確保できない人口が1600万人増加。
それによって飢餓人口は6億人以上の増加が懸念される。

このことだけを見ても現在の地球という星がいかに危機的な位置にいるのかということがわかるだろう。

わかりやすく言えば、車1台を満タン(50リットル)にするのに必要なトウモロコシは約110キロ。
トウモロコシを主食とするアフリカ、ラテンアメリカの人々の一人当たり年間消費量に匹敵するのだ。
車の1回分の栄養補給が人間の1年分にあたる、といえばなおわかりやすい。

地球温暖化対策が急がれている時に、燃料を石油等に依存し続けていいわけもない。
ガソリンを大量消費する経済構造の見直し、代替えエネルギー源の促進、食糧にならない植物部分の燃料化などなど、
やるべきことは山のようにあるわけで。

人々はもっと目を見開いて、気づくべきである、と私は思います。
まるで無尽蔵でもあるかのように燃料を使い続け、その結果、環境汚染を招き、
今度はそのツケのためにわれわれの食卓が脅かされいる、という悪循環が繰り返されているということに。

車の腹を満たすために、利便性だけを追求して、我々は飢餓難民への道を歩み始めようとしているのである。








No.264 君へ

2007/06/26(火) 01:10 - オパール 組 オーバル ()
絶望の淵に腰掛けている君へ

つらい想いを心のうちに隠し、いつも微笑んでいた君よ
ひとつ、またひとつ体から自由が奪われ、それでも愚痴ひとつこぼさなかった君よ
いく年月を共に過ごせるだろうと、こぼれるような時間を数えながら
笑い声で彩られた輝くようなあの想い出たちを宝石箱にしまいましょう

なぜ私たちは出会ったの?
涙を見せない君に強さを分けてもらうため?
同じ年月の長さを共に歩み、横にいたはずの君の歩を気遣いながら
いつのまにか振り返り、振り返り、君を探す私がいる

同じ年号をスタートして、ゴールはまだまだ先の予定だったのに
「予定は突然変更されました」おどけた君の声が聞こえる

明るい夏の日差しよ、たとえ半分でも君の心を照らせよ
くずれ落ちそうな君の心を、私のうたは支えられるだろうか
メールのこちら側の涙顔を隠して、明日君に会いに行こう

まとえるだけのありったけの光を君に届けるために






No.263 海洋民族

2007/06/18(月) 00:46 - ・ 組 カエサル ()
わが国を領海を含めて考えると、なるほど広大な領地を持つ国家ということになりますね。
まさに「目からウロコ」ですね。なるほど。

私は日本人(琉球をのぞく)=農耕民族という定義以外に考えたことがありませんでした。
土を耕し、田畑を作り、米神話を大事にする農耕の民だと思っていましたが、活躍の場は海にもありましたね。
この定義付けには妙に納得するものがあるのです。

農耕民族の族性に、上の米神話があります。
日本人にとって米は特別なもの、ときに神聖なものでさえあります。
五穀豊穣の代表であり、子孫繁栄の象徴でもあります。
これは和洋問わず、かもしれませんね。ウエディングセレモニーでのライスシャワーがそれにあたりますね。

勤労実直な農耕の民の姿を思うとき、集落総出での田植え、稲刈り等々。
季節の移り変わりにふさわしい色彩の中での人間の生の営み、額に汗して働く尊さ。

農耕民族の特質として、面白い見解があります。
「米、これはもう神聖なものである。
たとえば、農耕の民は自分自身が米粒に例えられたとき、しっかり握られたおにぎりの一粒でいたいと思っている。
にぎられるときにぽろっとこぼれる米粒には決してなりたくない、という願望がある。」

要するに、自分だけは外れた存在にはなりたくない、という心理の表れだという見解がある、ということです。
これは先の集落「総出」でする田畑仕事、収穫作業、体にしみ込んだ、慣れ親しんだ団体生活の術。
そういったものが民族の血として受け継がれてきているというのです。
和を乱すを嫌うというか、現在ではあまり考えられないことですが、よそ者をなかなか受け入れられないといった内向性や、
没個性をも表しているといえましょう。

それに比較して、沖縄人はどうでしょう。
先の農耕民族の属性に関して言えば、いわゆる「ゆいまーる」精神がそれにあたりますが農耕民族と分類を異にするのはなぜか。
それは、琉球民族の内なる特質が農耕民族とはまったく違うものであるということではないかと思います。

琉球民族は海洋民族といわれます。
争い事を嫌い、古くから平和を愛し、海の向こうから幸いやってくるという「ニライカナイ」信仰を抱き床の間には武器の代わりにサンシンを飾る。

Papillonさんのいわれるとおり、水域面積日本一、地理的にアジアへのアクセスの利便性に富んだ唯一の邦といえましょう。
それゆえ、海洋民族として力を発揮すべきときだというPapillonさんのビジョンはよくわかります。

海洋民族といえばミクロネシアや東南アジアの民にもあてはまることでしょう。
これは私個人の見解かもしれませんが、同じ海洋民族でも持っている「調べ」が違うような気がします。
「調べ」=「旋律」です。リサーチではありません。音のことです。
他の海洋民族と呼ばれる民族の持つ音は太鼓や打楽器、あるいはほらや笛が圧倒的。
それに比べて琉球はどうでしょう。おわかりですね。「琉球音階」という妙なる調べをサンシンでつまびく素晴らしい音を持っています。

我々は哀愁を帯びた情熱をうちに秘めたDNAを持っているのではないか、と思います。
なぁに、これはほんとに個人的な意見ですがね。
他人の痛みを無意識のうちに嗅ぎ分ける能力があるような気がしてならない。

牧志のバス停などで人々を観察していると面白いですよ。
たくさんの人々が、三々五々みんなてんでばらばらにバスを待っています。
こりゃ、バスが到着していざ乗車となったら殺到して大変?と思うほど並ばない。
ところが、乗車時にはだれもトラブルことなくおじぃ、おばぁを先に、子供連れを先に、誰に指示されることもなくスムーズに乗車していきます。
意識して観察しないと、この「愛ある行為」はだれにも気づかれません。それはそうです、だれもが当たり前のことをしているだけなのです。

では、東京の、そうですね、新宿あたりの駅のプラットホームではどうでしょう。
皆、整然と並んで電車の到着を待っています。ところが、電車が到着するやいなや空席に突進合戦が始まります。

いったいこの違いはなんでしょう?
私はこれはもう、「琉球音階」が身に染みた海洋民族のDNAの差であると信じています。
我々は内にあるとても崇高なものを持って生まれてきていると思いますね。
つらい歴史に彩られた琉球、虐げられることなく、日本のたたき台になることなく、
この地(海)の利をおおいに打ち出し、元気に大海原に打って出るときが来ているのかもしれませんね。

Papillonさんのビジョンに触れてそんなことを思いました。





No.262 目からウロコ

2007/05/29(火) 17:07 - オパール 組 オーバル ()
なるほど!
視点を変えただけでこんなに大きな志を持つことができるんですねぇ。
いびつなわたくしなど、ネット接続に四苦八苦しておりやっとここにくることができました。
ネットの波を捉えるのさえやっとで、これからゆっくりPapiさんのビジョンをイメージしてみたいと思います。

スムーズに文字の変換ができません。
パソコンも風邪をひいたかもしれません。
機械のご機嫌をとりながらの書き込み、時間はかかるし疲れます。では、また。

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