2002/08/01(木) 01:26 - ** 組 まぁ (女)
「四面楚歌」の危機を脱した後、項羽はわずかな兵とともに
長江(揚子江)の北岸にある烏江亭までやってきた。
烏江の亭長は船を用意して、項羽に江を渡って再起を
期すようにと勧める。
「江東小なりといえども、地は方千里、衆は数十万人、
亦王たるに足るなり。
願はくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り。
漢軍至るも以って渡ること無からん」と…。
しかし、項羽はこれを潔しとせず、
「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん」
と言って亭長の申し出を断り、愛馬騅を亭長に与えると、敵中に
切り込み、遂に力尽きて自ら首を刎ねて死ぬ。項羽31歳であった。
項王已に死し、楚の地皆漢に降る。
これから約千年の後、兵法家としても知られる晩唐の詩人杜牧が、
この地を通りかかり、潔く散った項羽を惜しんで詠んだ詩がある。
(烏江亭に題す)
勝敗は兵家も事期せず
羞を包み恥を忍ぶは これ男児
江東の子弟 才俊多し
巻土重来 未だ知るべからず
勝敗のゆくえは、兵法家でさえも予測はつかない。羞を包み、
恥を忍んでこそ真の男子といえるだろう。
江東(項羽の本拠地である)の若者には、すぐれた人物が多い。
捲土重来していたら、結果はどうなっていたか分からない。