沖縄県立首里高等学校:養秀の杜・植物苑 掲示板

No.21 4 )沖縄一中鉄血勤皇隊・銃器庫跡

2013/07/01(月) 15:56 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
第三小隊壕東側にあるこの地点に、古い墓の岩穴(現存)があり、勤皇隊の銃器が収納されていた。九九式歩兵銃、小銃弾、手榴弾、時代遅れの三八式歩兵銃や、教練用の古い銃など、貧弱そのものだったが、五月に入り、いよいよ米軍の前線が首里に迫った頃、敵戦車への体当たり作戦のために、対戦車用三式手投げ爆雷(重さ約3キロの円錐形で、手首にひもを巻いて、投げると、点火・爆発する肉薄攻撃用兵器)、急造爆雷が持ち込まれた。生徒一人ひとりは、蛸壷の中から飛び出して、敵戦車に爆雷と共に、飛び出していく肉弾攻撃に参加した。

No.20 沖縄一中鉄血勤皇隊・第三小隊壕跡

2013/07/01(月) 11:36 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
「篠原坂」に第二小隊壕を掘り進むうちに、これだけでは百名余の生徒を収容しきれないと考えた篠原中尉は、急拠、東側の子の地点からも壕を掘り、途中で第二小隊壕につなぐ方法を考えた。幅3m、天井は立って歩ける2mぐらいの高さにした。第二小隊壕と連結し、総延長48mの一中鉄血勤皇隊の拠点となる壕が完成した。完成まで4時間交代で、6回勤務、24時間ぶっ通しで掘る作業に、藤野校長も上半身裸になり、禿げた頭に鉢巻を締め、率先従事された。

No.19 沖縄一中鉄血勤皇隊・第二小隊壕跡

2013/07/01(月) 11:26 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
第一小隊壕を掘り進むうちに、篠原中尉は、総勢百名余の勤皇隊全員を収容するには、狭すぎると判断して、坂の東側のこの位置に第二の壕を掘ることにした。間口1m、高さ1.4mの入口を4mの間隔をおいて、東方向に二つ掘った。(戦後、道路工事で埋め立てられて、現在は目視できない)同時に東から掘り進められた第三小隊壕と連結して、全長38mとなった。第三小隊壕は、養秀会館敷地に保存されている。(見学可)。

No.18 鉄血勤皇隊第一小隊壕跡

2013/07/01(月) 11:15 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
「沖縄一中鉄血勤皇隊・第一小隊壕跡」昭和19年(1944年)十月十日の米軍による突然の大空襲を受けて、第32軍は、県内至る所に防空壕を掘ることを奨励した。県立一中の配属将校篠原中尉は、早速、校舎の近くにあるこの位置に堅牢な地下壕を掘ることを計画。先ず、五年生の特設班を中心に、この地点(安国寺境内地下)に掘削を始めた。横一メートル、高さ1,2メートルの横穴を開け、10m西方向に進んだところで、南側に出口を設けて(4月6日)、出入りした。ここは、勤皇隊本部壕として使い、その西側のアカギの林(現、民間駐車場)に炊事場を設けて、持久戦に備えた。5月4日、那覇の西にあるチービシから飛来した砲弾が炸裂して、勤皇隊二度目の犠牲者(3名)が出た。

No.17 一中鉄血勤皇隊の遺跡 表示板

2013/06/29(土) 14:52 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
さて、31期生飯田理恵子さんのご支援によって、遊歩道が完成したとして、その上方にあるいくつかの壕を史跡として保存し、観光客にも首里高校の後輩たちにも、分かりやすく、その意義を説明するためには、ちゃんとした説明板が必要である。その文案は、実は、数年前からできている。これを、二〇会の先輩たちにお見せして、それでよければ、いよいよ「一中鉄血勤皇隊奮戦の地」として、開示したい。その文案をこれから、この欄で提案します。①「篠原坂(旧称”玉陵坂”);この坂は、琉球王国時代、首里城から金城町を経て識名台地、識名園に達する道として掘削されたが、沖縄一中鉄血勤皇隊が結成された昭和十九年暮れから、坂の左右に壕が掘られて、鉄血勤皇隊の活動の拠点となった。配属将校篠原中尉が、およそ百名の勤皇隊学徒を指導し、時にわが子わが兄弟のように愛護し、共に戦った場所として、生存者「二〇会」から、敬慕の気持ちを込めて、「篠原坂」と命名された。(現在は、戦後の道路工事で埋められ、その位置を示すだけに留める)

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