沖縄県立首里高等学校:養秀の杜・植物苑 掲示板

No.26 沖縄県立第一中学校・養秀寮跡

2013/07/03(水) 13:47 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
1940年(昭和15年)、日本全体が紀元2600年を祝う記念行事に沸いていた時、一中では、創立60周年の記念行事として学生寮の建築が進んでいた。金城町1番地にあった當山家の敷地4950平方メートルの土地代を含めた総工費4万円は、校友会(現在の同窓会)、父兄会など多くの有志の協力で、確保された。そして、12月9日、木の香も新しく木造瓦葺き二階建て600平方メートルの「養秀寮」が完成、落成式が行われた。
養秀寮正門の左には「沖縄県立第一中学校養秀寮」、右には「興亜学徒錬成道場」と墨書された看板が掛けられた。その後5年間は、平和時の錬成が続いたが、戦時の荒波がこの寮を襲い、多くの犠牲者を生む修羅場となることを誰も予想できなかった。

No.25 沖縄一中鉄血勤皇隊・「日本一の卒業式」式場跡

2013/07/01(月) 16:51 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昭和20年(1945年)3月27日午後8時から、一中57期生と58期生の合同卒業式が、この地点で行われた。藤野校長ほか職員と第32軍の参謀、高級副官も参列。島田叡知事も駆けつけ、卒業する5年生、4年生と、見送る3年生が整列した。ただ一つ灯されたランプの周りに、艦砲射撃の標的にされないように、生徒数名が立ち、光を覆っていた。島田知事が、暗闇の中で、低い声で祝辞を述べた後で、「敵前で挙行される本日の卒業式は、我が国の歴史に前例のない日本一の卒業式である」と結んだ。最後に、第5砲兵司令部の佐野副官が「高等教育を受けた諸君を、軍はこれから下級士官、もしくは、上級下士官相当の戦闘能力を有する者として入隊を許可する」と述べ、文字通り「校門は営門に通する」事態となった。

No.24 沖縄一中鉄血勤皇隊・最初の犠牲者埋葬の地 

2013/07/01(月) 16:34 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昭和20年(1945年)4月12日、午後9時過ぎ。地響きと共に爆発音が轟き、養秀寮が火を噴いた。篠原隊長は隊員と共に駆けつけたが、建物はすでに火が回り、手の付けようがない。その火の手を目がけてさらにチイビシ(那覇の沖3キロにある浅瀬)からの砲撃が集中。寮は全焼した。焼け跡から、たまたま寝泊まりしていた勤皇隊3名が痛ましい姿で収容された。篠原隊長によって、3名はこの地(現駐車場東)に埋葬され、「陸軍上等兵の階級を墨書した三寸角の墓標」が建てられた。戦後、3名の遺骨は、親族によって、丁寧に収骨された。

No.23 6) 沖縄一中鉄血勤皇隊・教導兵詰所跡 ②

2013/07/01(月) 16:18 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
教導兵に顔が腫れ上がるほど殴られ、「俺たちだってお国のために戦っているのに・・・」と、泣いて悔しがった隊員。「戦闘になったら、後ろから手榴弾を投げてやる」と恨む隊員さえ出始めた。壕内の空気は、日に日に険しくなった。ある日、隊員の一人が、篠原隊長に状況を報告した。隊員が寝静まった深夜、隊長は、第二小隊壕前(篠原坂)に教導班9人を整列させ、いきなり一人ひとり張り飛ばしていった。「俺が貴様らにビンタを飛ばす理由は、言わずともわかるだろう。鉄血勤皇隊はこの戦争で、われわれと共に戦い、共に死んでいく身だ。それを貴様らは訓練、指導に名を借りて痛めつける。少しは労わってやれ。以後、私的制裁は厳禁する」。

No.22 5)沖縄一中鉄血勤皇隊・教導兵詰所跡①

2013/07/01(月) 16:07 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
鉄血勤皇隊全員に軍装・装備が支給された昭和20年(1945年)3月29日、勤皇隊を兵員として訓練・指導するため、第5砲兵司令部から9名の教導兵が派遣されてきた。班長の渡辺見習士官は温厚で人格者だったが、残りの古参兵は、至極獰猛な性質で、しばしば一中生を殴り飛ばした。教導兵の横暴と体罰は、戦火に比例して激しさを増していった。「お前らは、あと6か月もしたら、幹部候補生になり、われわれの上官になる身だから、今のうちに気合いを入れておいたやる」。絶望的な戦いを控えてのやり場のない鬱憤晴らしを、年端もいかない少年兵(勤皇隊員)に向けたのである。

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