沖縄県立首里高等学校:養秀の杜・植物苑 掲示板

No.31 養秀の杜、北側斜面の取り扱い

2013/07/26(金) 10:38 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
一中健児隊防空壕の解説掲示板の件で、名案が浮かばず、しばらく自身の本務に精励して夏負けを凌ぐことにしていたが、「県当局から、例の斜面を買い上げて、玉陵周辺の土地全体で統一的な開発を進めたいという申し出があるとか、いう、情報」が入り、あれれ!と、意表をつかれ、現在ミークラガンしているところです。熱中症のミークラガンではなく、天空から小さい雷が落ちたような軽い衝撃です。でも、この話、数年前から同窓会にもたらされた案件であるらしく、当時の同窓会が断固反対したといういきさつがあります。それはそうと、この斜面をも含めて、「養秀の杜・植物苑」を徐々に整備していこうという矢先に、いきなり、エンジンブレーキのような外力が加わると、小生たち力のないホランティアグループは、ただ、立ち往生する以外にない、のか。いやいや、この斜面は他の森林・原野とは、そもそも歴史的な比重が違うのではないか。ただ、「わかりました。土地を譲ります。あとは、勝手に、ご自由に開発してください」と野放図に手放していい素性の土地ではないのではないか。というわけで、以下のような、意見書をまとめました。

No.30 一中鉄血勤皇隊の遺跡 表示板 ②

2013/07/03(水) 15:26 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
さて、しかし、二〇会からのOKを戴いて、同窓会当局からも「その志やよし」と、激励のこどばも頂けたとして、問題は、その十数枚の掲示板である。まさか、ベニヤ板のちゃちな標識では、健児たちに顔向けができない。とは、いっても、小さな園芸サークルの力では、石造りの立派なものは無理である。プラスチック製のパネルという案もあるが、これだってぶら下げるわけにもいかない。やはり、観光客や、首里高校
後輩たちが観賞する場合もあり、ある程度の耐久性とデザインの最低限は確保したい。最近、眠れない日が続く。寝てはいるんだが、ショッチュウ、案が浮かんでは消え、消えては浮かぶ日が続く。ええい、ままよ、そのうち、同窓生のどなたかが、「ばっかじゃなかろうか、お前」「こういう方法があるじゃないか」と、以外にも簡単で安価な方法を伝授してくれるかもしれない。それまでは、この件、すっかり忘れていて、本務に精励していよう。

No.29 二〇会への報告と提案

2013/07/03(水) 14:58 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
事業としては;1)会館駐車場から、斜面に上り、鉄血勤皇隊ゆかりの壕(5か所)に至る遊歩道の整備。2)鉄血勤皇隊ゆかりの壕および関連する史跡(いわゆる”日本一の卒業式挙行地点、等)に、説明板を設置すること。3)北側斜面全体の緑化・花いっぱい作業。これらの計画に対して、すでに、首里高校卒業生各期からの関心が寄せられ、寄付等の支援が届けられています。つきましては、これらの事業全体を、同窓会当局との合議を経て、二〇会の事業として、認証して頂き、特に添付しました説明板の文案についても、検証して頂き、事業の発進を認めていただきたいと、報告および提案をいたします。御高配のほど、よろしくお願い申し上げます。平成25年7月3日、養秀同窓会文化部養秀園芸サークル代表吉田朝啓。

No.28 一中鉄血勤皇隊の遺跡 表示板

2013/07/03(水) 14:45 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
以上、十数枚の鉄血勤皇隊遺跡の表示板について、その文案なるものを開示して、諸志の意見を賜りたいと、書き込みしましたが、このような試みは、一人ではできない。是非、最大の関係者である「二〇会」の先輩に提案して、その了承と支援を戴かなければならない。そこで、今日、7月3日(水)一水会の会合があって、20会のメンバーにも会うので、要請文を届けることにした。「二〇会への報告と提案:先月の慰霊祭には、多大なご支援を戴き、恒例の行事に加えて、カンヒザクラとジュランの記念植樹、名蝶オオゴマダラの放蝶会など、新機軸も添えられ、遺族各位、首里高校の後輩生徒たちも、感懐を新しくして、平和への願いを強めたものと思料されます。私たち最後の一中生(昭和19年入学)を中心として活動している養秀園芸サークルも、この一中健児の塔の尊厳を維持しながら、霊域を緑と花と香りで包む活動に努めておりますが、このたび、いままで放置されていた”鉄血勤皇隊ゆかりの壕”を、史跡として整備、開示すべく、養秀会館敷地北側斜面の環境改善に取り組んでおります。

No.27 沖縄一中鉄血勤皇隊・第五砲兵司令部跡

2013/07/03(水) 13:59 - 最後の一中生 期 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
「天界寺マーチュウ」と呼ばれたこの断崖には、王府時代から古墓が並んでいたというが、尚敬王時代、祭温(1700年代の摂政)の墳墓撤去令によって整理され、洞窟がのこされた。沖縄戦時、第32軍第5砲兵隊司令部に使われ、沖縄一中鉄血勤皇隊通信隊班が配置された。1945年(昭和20年)、5月13日の米軍の艦砲射撃によって、内部に保存されていた対戦車急造爆雷が誘爆し、健児隊員3名が即死した。現在、洞窟は跡形もないが、崩れた岩石が砲撃の激しさを示している。

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