沖縄県立首里高等学校:35期 掲示板

No.456 宣伝です(^^;;

2004/05/16(日) 21:29 - 5 組 けーい ()
久しぶりの登場ですが、ちょっと宣伝させてください。
って、同期会の方ではなくて、娘が参加している演劇の公演の
宣伝です。

「太陽の王子2004 翔べ!太陽の子の大冒険」

というタイトルで、ご存知の方もいるかと思いますが、
勝連の「肝高のあまわり」のキッズ版という感じで、
浦添在住の小・中・高生が参加してます。

勝連同様、作、演出を平田大一さんが手がけています。

首里王朝文化のはじまるもっと前の浦添と現代の浦添が交差する
「うらそえ再発見ミュージカル」です。
去った2月21日と22日の浦添公演に続く再公演です。

  日時 5月29日(土)18:30開演
     5月30日(日)14:00開演
  場所 沖縄市民会館大ホール
  料金 大人1500円 高校生以下1000円(当日同じ料金)
  問合 実行委員会 090-9578-5912 もしくは私のメールアドレスまで
  

チケットの販売は、以下のプレイガイドでも扱ってます。

  あまわり浪漫の会・コープ牧港・あっぷるタウン・コープ美里・コープ山内



朝男興味ない?(強引?笑)

No.455 アメリカの土さんへ

2004/05/12(水) 18:17 - tora ()
 一期上の方 ですか? 長い詩なのに読んでもらってありがとうございました。
ひょんな事でメルトモになった高校生から送ってもらったんですが開けなくて
何ヶ月してやっと読んだという次第です。青臭さはありますが気持ちは伝わりますよね。
 私も何週間で子供を亡くしてます。無常であるから意味があるんでしょうが 凡人の私には
きついものがありました。この詩を送ってくれた年若い友人にあなたの感想を送っておきます。
とても まじめで誠実な子なので喜ぶと思います。また この部屋にお越しください。

No.454 大自然のすばらしさ

2004/05/12(水) 00:06 - ちょっと先輩 組 アメリカの土 ()
感動的な内容ですね。大自然のすばらしさは、触れたことのあるものしか語ることができません。
亡くなった友が、なぜあそこまで感動したのか、それを探しに3度も行った筆者の目の位置から
まるで私もオーロラを見ている気分になりました。子供を亡くしたとき、私もそれに近いものを感じ
たことがあります。この地球という大地にすむ私たち人間って何だろう・・・みたいな。

No.453 詩を送ってもらったので暇な方は読んであげてください!

2004/05/08(土) 12:23 - tora ()
夜空に見る涙

 現実的な私とは対照的に、あいつは夢見がちな性格をしていた。
 どうしてこんなに惹かれたのか、それは今でも解らない。
 いや、今なら解るのだろうか。
 少なくとも、あいつと出逢うことによって、私は少し変われたような気がする。
「オーロラってな、すげーんだぜ」
 病室の中、無邪気な子供のように両手を広げ、あいつは私に言った。
 私にはよく解らなかった。
 オーロラなんて、ただの自然現象じゃない。
 太陽から流れ込んだプラズマ流が、地球の地磁気に反応して起こる現象。
 そりゃあ少しは凄いことかも知れないけど、わざわざ地球の裏側まで行くほどの事でも
ないわね。
 そんなことでこれだけ騒げるなんて、大げさな人だと思った。
 でも、オーロラを語るときのあいつの目。
 あんな目ができる大人を、私はあいつ以外に知らなかった。
「もう一度、見たかったなぁ・・・」
 寂しそうに天井を見上げ、あいつは言った。
 また見に行けばいいと、私は励ました。
 でもあいつは、寂しそうに微笑むだけだった。
 病気。もう回復不可能なほど、あいつの体を蝕んでいた。
 きっと自分の寿命を悟っていたのだろう。
 私はそれ以上、何も言えなかった。


 あいつが逝ってしまった次の年。
 私は友達を誘い、アラスカへと旅立った。
 極寒のアラスカ。
 あいつが来たという場所。
 あいつが感動したという場所。
 私は感傷に浸るという性格ではなかった。
 だが、一度は来ておく必要がある、一度は見ておく必要がある、そんな気がしていた。
 連日の吹雪。
 オーロラを見ることは出来なかった。
 次の年。
 嫌がる友達を引っ張って、私は再びアラスカの地を訪れた。
 また吹雪。
 晴れていても、100%見られるわけではないという。
 短いツアー期間だと、見られる方が少ないかもしれないと、旅行会社の人は言っていた。
 あきらめて、帰路に就いた。

 そして、また次の年。
 今度は友達を誘う訳にはいかなかった。
 二年も連続で付き合わせて、しかも目的のオーロラを見ることは出来なかったのだ。
 仕方がない。私は初めての海外一人旅を決心した。
 今度は時期と場所を変えた。
 あいつが教えてくれた、もう一つの場所へ。
 観測所とホテルは、バスで行き来しなければならないほど離れていた。
 日本では秋口だというのに、やはりオーロラが見られそうな場所は極寒の地だ。
 深夜。
 空は晴れていた。
 沢山の星が出ていた。
 それは、日本ではおおよそ見ることが出来ないであろう程の、星の数だった。
 星が降ってくるとは、このことだろう。
 現地、四泊五日。
 チャンスは四回。
 だが、オーロラは出なかった。
 最終日だというのに、空には満天の星がきらめくばかりだ。
 今年で最後にしよう。
 今年見ることが出来なかったら、もうそれでおしまいにしよう。
 そう思っていた。
 所詮、現実的な私には、幻想的なことなど理解は出来ないのだ。
 深夜二時、バスが出発する時間だ。
 観測所に詰めていた人達は、残念そうなため息を付いた。
 私は用意してきたカメラと三脚をしまうと、バスへと乗り込んだ。
 バスが発車した。
「お前も見れば解るさ」
 あいつの言葉。
 その言葉に促されるように、何度も足を運んだけれど。
 結局見ることは出来なかった。
 何の感慨も沸きはしなかった。
 現実とは、こういうものだ。
 日本に帰って、また元の退屈な暮らしに戻るのだ。

 ふいに、バスの中が騒がしくなった。
 なんだろう?
 みんなが見ている方向、窓の外へと、私は目を向けた。
 これは・・・光?
 淡い、緑色の光が、天空に現れていた。
 その光は一条の筋となり、ゆっくりと地上へと降りてきた。
 突然だった。
 突然その光の筋が、大きく広がったのだ。
 目を見開いた。声が出なかった。時間が止まった。
 光のカーテンは大きく波打ち、私は一心にその光景を見つめた。
 バスが停車した。
 気を利かせたバスの運転手が、路肩でバスを止めてくれたのだ。
 我に返った私はカメラと三脚を担ぎ、他の乗客と一緒に慌ててバスを降りた。
 荷物を地面に降ろすのも忘れ、夜空を見上げた。
 頭の上に覆い被さってきそうな、薄緑色の大きなオーロラが、天空を舞っていた。
 少し触れただけで壊れてしまいそうな、薄い、淡い、光のカーテン。
 あいつが見たもの。
 あいつが感動したもの。
 これだったんだ・・・。
「オーロラってな、すげーんだぜ」
 無邪気な子供のように両手を広げ、あいつは言った。
 私はずっと昔に、ずっとずっと昔に、大切なものを置いてきた。そんな気がした。
 あいつが持っていて、私が持っていないもの。
 私があいつに惹かれた訳。
 それは・・・・・。
 凄く寒いはずなのに、濡れた頬だけが暖かかった。
 あいつが逝ってしまったとき、私は涙を流さなかった。
 解っていたこととはいえ、とても悲しかった。でも涙は流れなかった。
 今、私の頬を、止めどもない涙が伝っていた。
 私はただただ、夜空を見上げて泣いた。




No.452 想像力‥

2004/04/19(月) 00:39 - 6 組 わっちん ()
皆さん、安謝新港が埋め立てられ始めた頃をご存じかな~。ワタシは未だ小学生で外周
を囲んだ安謝の埋め立て地で釣りを楽しんだ一人なんですよ。外周が埋め立てられても
所々にプールの様な穴ぼこが沢山あって「釣り堀」状態だったので結構釣れましたよ。

その埋め立て地の一角に我々が名付けた「クスゲー船」の船着き場がありました。現在
の様に下水道が普及していない時期だったので「ポットン便所」には汲み取り車が必要
不可欠で、その汲み取り車が向う最終処理施設として「クスゲー船」船着き場があり、
汲み取った屎尿は海洋投棄されていたわけです。

海洋投棄とは言え、現在ほど環境問題には敏感ではありませんから遠くへ行くと見せか
けて、渡嘉敷島近辺で投棄したのかも知れません。屎尿は人間が排出するものですから
当然自然へ帰るでしょう‥が、問題は安謝の埋め立て地に漂着していた「浣腸容器」で
す。

ガキ大将だったワタシは、その「浣腸容器」がイチジク型だったが故に「風船の原型」
だと思いこみ、釣りに同行した友人らの口にくわえさせて膨らませるよう命じたことが
あるのです。勿論プラスチックですから膨らむハズはありませんが、拾った容器を一列
に並ばせた友人らに一つずつくわえさせて「誰が一番に膨らむか勝負しよう!」などと
無邪気に号令をかけていたのです(ToT)。

通称「イチジク浣腸」を知った20代。ふとコノ記憶が蘇りましたが、長い間脳の片隅
に封印しておいた記憶がナゼかイラクで拘束された3人が解放されたという報道を見た
時に蘇ったのでした。友人らの記憶が蘇らない事を祈りつつ‥。

米国がイラク戦争を始めた頃、イラクへ写真を撮りに行きたいなと漫然と考えました。
が、肉親が何人も存在する以上無謀な事は出来ないと考え、アタマの隅へ追いやったの
です。今回解放された3人ですが、ワタシ的にいうと「お馬鹿」以外の何ものでもあり
ません。劣化ウラン弾やストリートチルドレン、報道写真と題目は大層立派ですが誰も
遺言を書いて戦場へ向った気配が無く、皮肉にも大嫌いな政府へ肉親が「自衛隊を撤退
させろ」と要求する始末でした。自衛隊が派兵されたから「危険な目にあった」と主張
する人もいますが、本来NGOや個人ボランティアで危機管理能力の無い人間は戦場へ
は行ってはイケナイのです。つまり海が荒れていたら泳げない人は泳いではいけないの
と同じです。崇高な目的も親や兄弟から諫められると萎んでしまうほどで、説得されて
帰国するなら、行かない方が良いんじゃないでしょうかね。拉致されて拘束されると思
わない事自体に「想像力」の欠如、すなわち危機管理能力ナシと烙印されても仕方ない
でしょう。

報道各社の現地取材を手がける「アジアプレス」の代表は仕事の為に離婚したと報じら
れていました。「命を売る」=「高額な報酬」=「ジャーナリズム」でしか現地の情報
は得られません。大企業の記者やカメラマンは組合が「行かせるな」と反対するので弱
小プレスに「言ってくれ」とお願いするのです。昨年末、産経新聞の記者が石垣島の飲
み会に紹介と言ってはうやうやしく現地コーディネーター同伴で現れました。プライベー
トと言いながらも現地コーディネーターを傅かせているあたり、取材と称した「遊び」
だと直感したワタシは「こんなトコロで遊んでないでイラクへ行きやがれ!」とケツを
蹴飛ばし追い出しました。


そんな記者に比べれば開放された3人は未だマシですが、今ひとつ何かが足りない気が
します。人間、夢は想像できますが「死」はナカナカ想像出来ませんからね‥。


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