沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.110 記念植樹方式による首里城下の緑化

2013/06/20(木) 10:05 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
数日前に、関東方面から飛んできた巨大な援護射撃と、思っていたら、こちらの勘違いで、900名の会員を擁する実践部隊ではなく、メールで沖縄に関するプライベートな情報交換ネットワークだということである。小生、正直ホッとして、納得した。しかし、900名ものアチコーコー人間が、なにはともあれ、沖縄に心を寄せてくださっているということは、大変なことである。これはこれで、大事に、われわれウチナーンチュは心にとめておいて、こちらからなにかアピールしたいことがあったら、このネットワークを活用したらいいのではないでしょうか。ただし、個人の宣伝や、他人の誹謗中傷など、公共秩序、美風良俗に悖るような内容は、即削除されるから、良識の範囲ないで!という規範がある。そこで、その規範内にぴったりはまるような、アピールを早速、この欄で披瀝しようと、欲を出した。このアピールは、十年以上も前から世論に訴えているのだが、・・・。相克する開発と緑化運動のバランスを図るための一手として、まず、観光客や一般県民に記念植樹を呼び掛ける。年に一回、天皇陛下をお招きして、とこかの県で行われるお儀式的なイベントではなく(それはそれでインパクトはあるが)、沖縄では、年中記念稙樹をやりたいのだ。

No.109 美ら島財団からの援護射撃?

2013/06/19(水) 11:43 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
またまた、軍隊用語が出て、ごめん。でも、関東からの支援メッセージを戴いた直後なので、つい、援護の文字が浮かび、立て続けの「着弾」なので、うろたえるのだ。昨日、小生代休の日なので、養秀会館へ行ったら、前もって知らせのあった、沖縄美ら島財団(旧海洋博記念公園)からのビッグなプレゼントがどっさり届けられているではないか。南米原産の色とりどりのプロメリア類、サンニン(月桃)の仲間のアカボゲットウ(Red jinger),東南アジア原産のタマリンド(Tamarindus indica)などが、トラックいっぱい、届けられたのだ。ちょうど、鉄血勤皇隊の壕の前の斜面には、何を植えて、霊域を飾ろうか、思案していた時なので、壕の辺りの半陰地帯は真っ赤なアカボゲットウをびっしり植えて、「赤き血潮ぞ、空を染めける」と詠われた仲宗根政善先生の詩にも馴染むだろう、と考えた。慰霊祭(23日)が済んだら、園芸サークル全員で、斜面に段々畑をつくり、真っ赤なアカボゲットウを植え込もう。そして、東側500mにある(記念運動場裏)通信隊司令部壕まで、遊歩道を伸ばしていこう。”少年のような夢”と、笑うなかれ。小生たち「最後の一中生」。あと数年でこの地球から消え去るのだから。急がないといかんのだ。

No.108 関東からの援護射撃?

2013/06/19(水) 10:48 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
どうも戦中派の発する言葉は荒っぽくていかん。援護射撃なンて、戦争を思い出させる単語がちょいちょい出てくる。でも、四苦八苦している人間にとって、突然傍から援助の言葉や支援の手が差し伸べられると、力がよみがえって、前進する気になるのだ。先日も、養秀会館の北の斜面にある、一中鉄血勤皇隊の古い壕が草ボーボーのまま放置されているのを嘆いた小生ら(最後の一中生)が、何とかして整理して、標識をたて、遊歩道を通し、「一中健児隊奮戦の地」などと、史跡化しようと、アピールしたら、(誰も聴いてくれないと思っていたのに)、突然、関東のある人からメールが入って、「感銘した、遊歩道のための丸太でお困りなら支援しよう?」とか、いう趣旨の励ましを受けた。関東から丸太が送られるはずはないので、どう返事したらいいのか、昏迷していたら、実は、関東方面に「沖縄情報」などというグループがすでにあって、900名以上のメンバーを抱えていること、その外いろいろな支援ができそうだというニュアンスの応援を戴いた。900名の会員を擁する団体と聞いて、小生、実は、いまビビッている。養秀園芸サークル(たった30名弱の趣味グループ)の仲間に相談して、なにをお願いしようか、考えようと思う。

No.107 一中鉄血勤皇隊の遺跡~2

2013/06/17(月) 09:50 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
養秀同窓会会館の北側斜面にのこされたままの、鉄血勤皇隊の遺跡が草ボーボーのまま放置されているのをみて、小生、済まなさと義憤を覚えた。立派な慰霊塔と戦没者刻銘碑と健児の像が建立され、立派な慰霊蔡が開催されるが、「なにか、忘れていませんか」と、小生、毎年、今頃考える。会館内に健児たちの遺書や遺影や戦記ものが陳列されているが、観光客も後輩たちも文字と映像だけを頼りに、70年前の「汗と涙と血の難行苦行」を連想するのは、正直言って、至難であろう。と、そう考えて、小生、斜面の遺跡「鉄血勤皇隊・奮戦の跡」を明らかにして、表示板を建て、斜面を散策しやすいように、遊歩道を整備し、同窓会および、沖縄県の新たな観光資源に仕上げようと考えた。このことを、「養秀園芸サークル」のメンバーに訴えたら、皆快く賛同して、遊歩道の整備に取り掛かった。道半分の現在、土止めの丸太を探して、思案中。
どなたか、古い木造の電柱など、利用できる資材を提供して下さらんか。直径20cm、長さ70cmほどの古材料、およそ20~30本。090-19420~4005.吉田。

No.106 一中鉄血勤皇隊の遺跡

2013/06/17(月) 09:30 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
大方の首里高校同窓生は、もう、一中鉄血勤皇隊がなんなのか、健児の塔がどこにあるのかさえ、分からない、関知しない状態だろう。沖縄県内では、いま、戦争体験を風化させないという”焦りにも似た動き”が広まっている。あちこちのガマが見直され、遺骨収集も盛んだ。首里城直下の第32軍の地下壕をどうするか、いま、検討されているようだが、首里高校の前身である沖縄県立第一中学校の学徒たちが、まるまる半年の間、汗と涙を流して掘り進めた壕が、首里城近く(養秀会館)に、放置されているという事実は、知られていない。安国寺の脇から南へ、坂を下りていくと左に養秀会館への横道があり、会館敷地の北側斜面に県立一中鉄血勤皇隊のガマが4~5か所、放置されている。実は、この壕、小生が一年生の頃、軍名を受けた配属将校(篠原中尉)を先頭に、数百名の健児たちが、昼夜兼行で掘り続けて完成させた横穴式防空壕である。安国寺南の「第一小隊壕」と坂の東側に掘られた「第二小隊壕」は、戦後道路整備で埋め立てられて、その姿はみられないが、養秀会館敷地に開口したままの「第三小隊壕」は、現存する!! さらに、その東側の「武器庫」と、「教導兵の部屋」「医務所」が、はっきり残っているのだ。

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