沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.115 叔母・従姉妹の終焉の地

2013/06/29(土) 11:40 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
小生の本家は、首里にある。この戦で一家断絶して、戦後、その本家の屋敷に小生は住んでいる。第32軍の牛島司令官以下幕僚が首里城下の司令部を放棄して、南に撤退したとき、まだ首里の町には、多くのスインチュ(首里人)が置き残されていたらしい。それでも、さすがの(のんびり屋の)スインチュも事態の只ならぬことを悟り、着の身着のまま南へ下った。叔母さんと女学校出たての姉妹二人。途中、東風平の農道で、一中生に出会ったらしい。その一中生、いままで、本家の自宅に下宿していた生徒だったが、鉄血勤皇隊として南へ南へと下がる途中、下宿の小母さんと姉さんたちが、北の方へ歩いていくのをみて、「北の方は、司令官も撤退して、もう行けないよ。南へ、一緒に下ろう」と、誘った。小生の叔母(親父の兄の妻)は、「どうせ、死ぬなら、少しでも家(儀保)に近いところで・・」と、つぶやいて、北へ去ったという。後姿を見送った一中生は、九死に一生を得て、戦後、この出会いを小生に語ってくれた。小生、毎朝、与座岳頂上の職場に通勤するとき、叔母さんと従姉妹の姉さんたちは、一体どの辺で倒れたのか、と、靄の中のの山野を見渡すのだ。

No.114 牛島司令官の退路

2013/06/29(土) 11:02 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昨日、午後のひと時、職場でぼんやりしていたら、三人の老人が訪ねてきた。いつも第一水曜日の模合で会っている「最後の一中生」の三人で、見慣れた顔なんだが、「どうした、突然、現れたりして?」と、問うと、「いやなに、沖縄戦の時、手を挙げた(捕虜になった)地点がどこだったか、確かめておきたいと、ふと、話合って、やってきたんだ」という。因みに小生の職場は、与座岳の頂上、自衛隊とゴルフ場に囲まれた民間病院で、戦時中、兵士と民間人が入り乱れて、右往左往した地獄の丘である。三人は、それぞれ、南部のこの辺りで、それぞれの姿で泥まみれになって、手を挙げたようだが、地形も風も変わって、大体の目星をつけただけで、帰る途中、お前の病院を思い出して、寄ってみた」という。68年前、この辺り、てんぷらのように腐乱した屍体、岩にこびりついた大腿や手首、死んだ母親の乳首にすがる幼子、水・ミズ・・とせがむ負傷兵、鬼哭シュウシュウの地獄の丘だ。いま、その丘の上に、自衛隊の基地が駐屯して、「島嶼防衛」の名目で、頑張ってくれているのだが、・・・。それは、そうと、小生、毎朝、首里から通勤する途中、高速道路を突っ走り、与座岳の尾根を登るのだが、いつも、20万人の屍体の上を飛び越えて走っているような気になる。高速だから、引っ掛かるなにもないが、そこを下りて、いよいよ与座岳の麓にくると、あの「32軍を指揮した牛島司令官は、どのルートでこの与座岳を越えたのだろうと、スピードが落ちるのだ。いま、東風平の高良十字路からは、立派に舗装された国道が貫通しているが、・・・。旧友三人にそのことを尋ねたら、「それは、君、いまの国道じゃなくて、尾根を横切る旧道だよ。まだ、残っている狭い村道だよ」「おれも、あの道を通って摩文仁へ出た」「牛島司令官や長参謀長、八原参謀以下、幕僚も、この道を通って南に抜けたことは、間違いない」という。小生の胸のつかえがグッととれた。

No.113 オオゴマダラ「養秀寮」の空に舞う

2013/06/26(水) 14:46 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
小生、齢八十一。加齢現象で、涙腺が緩くなっている。でも、滅多なことでは、流さない。と、いつも肝腎な時には心を引き締めるのだが、先日の一中健児の塔慰霊祭には、つい、うっかり、涙をこぼしてしまった。毎年、健児の塔の硬い石碑の前で、型通りの式典をやって、307名の御霊は、満足して、また一年、じっとしているのだろうか、と、大きなテントの下で、刻銘碑をにらむのだが、・・・。今年は、新機軸で、斬新なことを提案しようと、当局に申し入れ、①桜とジュラン(芳香性植物)の記念植樹、②沖縄の名蝶オオゴマダラの放蝶会を企画した。そしたら、同窓会も納得して、両方ともやってくれた。一連の慰霊祭行事が粛々と進み、式も終わるころ、司会者の合図で、女子学生15名が刻銘碑の前に勢ぞろいした。両手の指にはオオゴマダラがやんわりと挟まれている。吹奏楽が短い曲を奏でて、やがて、合図とともに、蝶が放たれた。900名を超える参列者の眼前で、白い大柄なオオゴマダラが右に左に舞い、やがて大空へ、南の空へと、飛翔していった。慰霊祭の歴史上、初めての出来事に参列者全員、一瞬、シーンとなったが、やがて、遺族席の辺りに、涙を拭く姿が見られた。小生も、ぐっときた。なにしろ、齢13~16歳で、兵隊となり、鉄血勤皇隊の名で、まとめて戦場に駆り出された、小生の同級生たちであり、先輩たちであった。それが、星雲の志も夢もすべて断ち切られて、黒い刻銘碑に押し込められているのだ。年に一度は、パーッと大空に飛翔したい、させたいと、願っていたのだから、自由に、八方に飛翔していく姿を見たら、やはり、ぐっとくるのだ。

No.112 なにかの記念に植樹を

2013/06/20(木) 10:58 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
前回、誕生、卒業、就職などの記念に植樹を、とアピールしたが、グループの結束の印に木を植えるという考え方もある。その先例として、首里高校第29期生「若夏会」が、香り植物ジュラン(樹蘭)を、養秀同窓会会館の正面階段上両サイドに、植えた。高さ150cmすでに成木の風格があり、数百の花を開花させて、得も言われぬ芳香を放ち始めている。同窓会では、先頭バッターホームランと呼んで、この29期生の有志に、同じ木の小さな苗(50cmサイズ)を用意して、一中健児の塔慰霊祭に参拝された方に提供しようと、文献資料を添えて準備、完了。年一度の慰霊祭だけでなく、一年中、緑と花と芳香で、健児の塔を包もうという趣旨である。香り植物の外に、例えばオオゴマダラの食草ホウライカガミをどっさり植えて、健児たちの魂を年中大空に飛翔させようという企画も進んでいる。307名の刻銘碑の上を、最近、オオゴマダラが悠々と飛ぶ姿も見られるようになった。

No.111 人生の節目に記念植樹を

2013/06/20(木) 10:29 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
人々は子の誕生、入学、卒業、就職、結婚、定年、米寿などと、事あるごとに、揃ってお祝いをする。記念写真を撮り、書棚に飾る。これで、自宅外には、なにも残らないまま、次の節目まで、幸せに暮らす。そこで、一歩社会に出て、それぞれの節目に結集した喜びと決意のエネルギーを、一本の木に預けて、時々刻々喜びを成長させよう。沖縄のどこかに、自分たち仲間の願いを込めた一本の木が成長し続けているのだという満足と励ましの証として、自分の趣味に合った樹木を植えるのだ。例えば、「養秀の杜・植物苑」から、東側に広がる首里城下の斜面に、例えば、ツマベニチョウの食草であるギョボク(魚木)を植えたり、オオゴマダラの食草であるホウライカガミを植えたり、あるいは、リュウキュウマツ、黒木、リュウキュウイヌマキなど、在来の銘木を植える。その木の所有権は、植えた人の一代限り確保する。ただし、植栽にかかる費用は、例えば(木の種類とサイズによるが)1万円~5万円とし、育苗~管理は土地所有者や管理者に委ねるとする。年末には、その木の成長ぶりを示すスナップを添えて、所有者(植樹者)に、クリスマスメッセージを添えて送るというシステムである。植栽場所は、さしあたり「養秀の杜・植物苑」で十分ゆとりがある。

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