昨日、午後のひと時、職場でぼんやりしていたら、三人の老人が訪ねてきた。いつも第一水曜日の模合で会っている「最後の一中生」の三人で、見慣れた顔なんだが、「どうした、突然、現れたりして?」と、問うと、「いやなに、沖縄戦の時、手を挙げた(捕虜になった)地点がどこだったか、確かめておきたいと、ふと、話合って、やってきたんだ」という。因みに小生の職場は、与座岳の頂上、自衛隊とゴルフ場に囲まれた民間病院で、戦時中、兵士と民間人が入り乱れて、右往左往した地獄の丘である。三人は、それぞれ、南部のこの辺りで、それぞれの姿で泥まみれになって、手を挙げたようだが、地形も風も変わって、大体の目星をつけただけで、帰る途中、お前の病院を思い出して、寄ってみた」という。68年前、この辺り、てんぷらのように腐乱した屍体、岩にこびりついた大腿や手首、死んだ母親の乳首にすがる幼子、水・ミズ・・とせがむ負傷兵、鬼哭シュウシュウの地獄の丘だ。いま、その丘の上に、自衛隊の基地が駐屯して、「島嶼防衛」の名目で、頑張ってくれているのだが、・・・。それは、そうと、小生、毎朝、首里から通勤する途中、高速道路を突っ走り、与座岳の尾根を登るのだが、いつも、20万人の屍体の上を飛び越えて走っているような気になる。高速だから、引っ掛かるなにもないが、そこを下りて、いよいよ与座岳の麓にくると、あの「32軍を指揮した牛島司令官は、どのルートでこの与座岳を越えたのだろうと、スピードが落ちるのだ。いま、東風平の高良十字路からは、立派に舗装された国道が貫通しているが、・・・。旧友三人にそのことを尋ねたら、「それは、君、いまの国道じゃなくて、尾根を横切る旧道だよ。まだ、残っている狭い村道だよ」「おれも、あの道を通って摩文仁へ出た」「牛島司令官や長参謀長、八原参謀以下、幕僚も、この道を通って南に抜けたことは、間違いない」という。小生の胸のつかえがグッととれた。