沖縄県立首里高等学校:4期 掲示板

No.13 親友の訃報

2014/01/13(月) 12:32 - 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
養秀同窓生掲示板の縦断の旅の三回目に入って、第6期生の欄まできたいま、昨日、友人と会って、親友「野崎真昭君の逝去」を知らされた。同時に波里君も新年早々、逝ったという。絶句。二人とも、戦後新生首里高校の4期生として、共に青春を謳歌した「クビチリドゥシ(刎頚の友)」である。一中の残骸に設けられた仮設教室で、雨を気にしながら物理・化学・国語・算数・英語など、細々と学んだ高校時代。余った時間は、東側(現・校舎の位置)のグラウンドで、全校生を集めての「応援歌練習」。いろいろ、共に爆発させたエネルギーだったが、その力も果てたのか、両君とも逝ってしまった。ここで、いま、この欄に当時の我々首里高生の生きざま、心意気を書き連ねたいが、今はただ、黙して、二人の冥福を祈ろう。合掌。

No.12 定年からの人生設計~⑤

2014/01/11(土) 15:08 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
小生、「定年からの人生設計」の話で、いつも前もって話すのは、「なぜ、沖縄は全国一の長寿県だった(!)のか」という事情についてです。①終戦後、手がけた疾病対策。一蓮托生の米軍が、まず伝染病対策を進めたこと。フェンスを越えて軍人や家族にも伝搬するマラリア・フィラリア、性病、日本脳炎、など、致死的な感染症を対策したこと。その頃青壮年だったウチナンチュが、その後長寿県沖縄を支え続けた。②ウチナンチュの伝来の合理的な食習慣。粗衣粗食の時代から摂りつづけた野菜食中心の家庭料理、シチビシチビ(節日)に、思い切って食べる豚肉と魚料理。豆腐の常用。③温暖な気候:月平均気温が最低(1~2月)16度という亜熱帯沖縄の温暖な気温。雪に閉じ込められない開放的な気候。④温雅な精神風土;年寄を尊重し、隣人を見捨てないチムグクルの世界。これらがグルになって沖縄の長寿に作用し、保ってきた。そのことを先ずは説明して、本論に入ることにしています。

No.11 幻の一中生!!

2013/10/03(木) 10:37 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
「それはないよ。入学試験に合格しただけでは、一中生とはいえん。ちゃんと入学式を済ませて、海邦養秀の息吹を浴びて、”一中生われら国士たるを期す”と、魂を入れなおして、身も心も真の一中生にならんと、一中生とは認められん!」と、「少なくとも、”最後の一中生”は、昭和19年入学のわれわれまでだな」と、突き放すと、「それを、なんとか、仏心で、認めて頂戴”」と、ビールを注いで懇願する一年後輩の同僚に、「どうしてもというなら、君たちには”幻の一中生”という特別の称号を与えよう。その代り、先輩には、その都度せっせと、ビールを注ぐこと」。そこで、昭和19年を挟んで、爆笑のうちに、会は盛り上がる。ここで、「最後の・・」とか「幻の・・」とかに、こだわっていてもしようがない。小生が訴えたいのは、文中にある「国士たるを期す」というフレーズである。一中生みんなが、誇りを胸に歌った逍遥歌にある「国士」という二字に注目してほしい。まず、自分を確立し、家族を守り、それだけではなく、地域社会~国にも思いをいたして、貢献する、そのような人物を広い意味で「国士」と、戦後、考えるようになった。戦前は、国から人民まで縦一直線の「公」だったが、いま、横一直線の「公」つまり、身近な地域社会が、われわれ人民の「尽くすべき相手」だと、考えるのです。さて、その意味で、前回、登場してもらった吉嶺全一という四期生のことだが、激烈な沖縄戦を生き延びて、いま、彼は、戦の語り部として、日夜活動している。我々のいう「国士」である。

No.10 幻の一中生?

2013/10/02(水) 15:54 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
首里高校が戦後現在地に復活したとき、鉄血勤皇隊の生き残りや、外地から引き揚げてきた人、本土疎開していた人が、どっと入り込んで、首里高校第一期生は、実に多彩な顔ぶれであった。「南洋帰り」とか、「予科練帰り」とか、威風堂々とした髭面の上級生を前にすると、小生たち下級生はちじみ上がってしまうのだった。南洋帰りの野球選手たちが頑張って、全県高校野球で優勝したこともあった。本土の中学校で二年生の頃に帰ってきた小生を、桃原良謙先生(一中の化学担当教諭)と小生の親父が話し合って、一年に落として、ゆっくり高校生活を送らせたのは、得策であった。おかげで、昭和19年入学の最後の一中生として、本来なら首里高校三期生となるところ、四期生に組み込まれる始末。首里高4期生には、そのため、一期後輩の友人が少なくない。中でも、昭和20年、春、沖縄県立第一中学校の入学試験に合格して、晴れて一中の門を潜ろうと、勇んでいた生徒たちが、また、少なくなかった。その中に、吉嶺善一がいた。彼は一中の門を前にして、米軍上陸に会い、家族と共に、南部に落ち延びた。あとは、多くのウチナンチュと同じく、砲煙弾雨の中を、南へ、南へと逃れて、最後、摩文仁の丘のふもとで、辛うじて命を拾い、戦後を始めることになる。吉嶺の外にも、タッチの差で、一中入学を阻まれ、戦後の新制高校のトップランナーのコースを走ることになる「幻の一中生」が、小生の周りにいる。宮古の秀才児金城君。小生と医師会で同席するたんびに「俺達までを最後の一中生にしてくれんか」と、絡むのだ。

No.9 同期生会は養秀会館で!?

2012/10/16(火) 15:52 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
いま、オリンピックイヤーで、同期生会が色々なホテルで開催され、幹事が大忙しな様子。中には、豪華なホテルの大広間を予約するのに、その借用料金の徴収に四苦八苦する場面もあるという。一人¥5000徴収しても足が出ると嘆くクラス幹事もいるという。われわれ最後の一中生(一水会)は、毎月ささやかに割安の(八汐荘の)レストランでやっているので、会費の心配なく豪快にやっている。たった20名の生き残りだからクーグートゥグワー(小規模に)やれるが、数百名の同期生会だったらそうはいかないだろう。同情する。そこで考えた、いまわれわれ養秀園芸サークルが構想している「養秀植物園」では、百名内外の人数だったら、広場いっぱいにテーブルを並べて、オードブルかなんか取り寄せて、野外パーティーができるように、そんな植物園にしようないか、と、画策しているのです。もちろん、雨がふったら大変だが、そうなったら、会館の会議室かなんかに逃げ込んで継続すればいいし、最初から首里高校のテントを10セット張って置いて、やってもいい。とにかく、同窓会会館を活用してもらうよう、養秀植物園としても構想をたくましくしていることを、お伝えしておこう。

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