首里高校が戦後現在地に復活したとき、鉄血勤皇隊の生き残りや、外地から引き揚げてきた人、本土疎開していた人が、どっと入り込んで、首里高校第一期生は、実に多彩な顔ぶれであった。「南洋帰り」とか、「予科練帰り」とか、威風堂々とした髭面の上級生を前にすると、小生たち下級生はちじみ上がってしまうのだった。南洋帰りの野球選手たちが頑張って、全県高校野球で優勝したこともあった。本土の中学校で二年生の頃に帰ってきた小生を、桃原良謙先生(一中の化学担当教諭)と小生の親父が話し合って、一年に落として、ゆっくり高校生活を送らせたのは、得策であった。おかげで、昭和19年入学の最後の一中生として、本来なら首里高校三期生となるところ、四期生に組み込まれる始末。首里高4期生には、そのため、一期後輩の友人が少なくない。中でも、昭和20年、春、沖縄県立第一中学校の入学試験に合格して、晴れて一中の門を潜ろうと、勇んでいた生徒たちが、また、少なくなかった。その中に、吉嶺善一がいた。彼は一中の門を前にして、米軍上陸に会い、家族と共に、南部に落ち延びた。あとは、多くのウチナンチュと同じく、砲煙弾雨の中を、南へ、南へと逃れて、最後、摩文仁の丘のふもとで、辛うじて命を拾い、戦後を始めることになる。吉嶺の外にも、タッチの差で、一中入学を阻まれ、戦後の新制高校のトップランナーのコースを走ることになる「幻の一中生」が、小生の周りにいる。宮古の秀才児金城君。小生と医師会で同席するたんびに「俺達までを最後の一中生にしてくれんか」と、絡むのだ。