沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.120 認知症の始まり

2013/08/17(土) 11:11 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
人間、年取ると、ボケる。カニハンディとーん、と言われて(大工が使うL字型の金属定規に合わない状況)、ますます自信を無くし、ますます頓珍漢な状態を深めていく。その最初の症状が物忘れ。メガネをヒョイと置いて、どこへ行ったか、と、探し回る。小生も、先日、いつも身に着けている携帯☎が見当たらないことに気付き、右往左往。車の中か、パソコンの部屋か、着衣のポケットか、どこを探してもない。二日間、凧の糸が切れたように、大空をフワフワした気分で暮らすのだった。携帯☎なんて、あってもなくてもヘッチャラと、普段思いがちだが、とーんでもない。重要な人から重要な要件で着信があるのではないか。家にいる婆ちゃんがまた転んだのではないか。養秀同窓会の敷地に仕掛けてあるハブ捕獲器に、大きなハブが引っ掛かっているという知らせが入っているのではないか。イライラして、仕事にならない。だが、ふと思いついて、職場の同僚の携帯☎を借りて、自分の携帯に☎してみた。そしたら、自分の執務室の片隅から、けたたましい着信音。「おおい、ここだよ、爺さん。おれを放り出すなんて、ひどいよ、気をつけろよ」と、呼ぶ声。ホッとするやら、反省するやら。この程度のことは、正常範囲の健忘症で、気落ちすることはない。ここらからが、踏ん張りどころ。いつも頭を使い、人と話をして、特に同期生と会合を持つ。
励まし合う。クラス会の大事な所以である。小生たち、毎月第一水曜日に「最後の一中生」同士集まって校歌を歌う。ボケる仲間はいない。

No.119 横断の旅仲間さんへ②

2013/08/10(土) 10:32 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
先日のご提案、Face bookへの登録。早速、養秀園芸サークルの若いメンバーの手ほどきで、開始しました。でも、手続きが未完で、こちらからの発信がまだ不如意で、応答しないまま、たくさんの「おともだち」がスタンバイの状態でひしめき合っている状況です。中には、カンボジアやベトナムなどの名も知らぬ人だったり、北米、南米かららしい入信もあり、その数数百。怖気づいています。でも、その凄まじいほどの広報力は、捨てがたいものですね。先輩・後輩との絆をキープし、固めるためには、まさに時代の利器ですね。参加させてください。

No.118 はじめまして

2013/08/05(月) 20:31 - 横断の旅仲間
こんにちは。
60期の者です。
久しぶりにこの掲示板をのぞいてみると、60期の掲示板に吉田さんの書き込みがあり、
「最後の一中生」というネーミングにひかれて、60期…59期…58…と下りながら、横断の旅を追いかけました。

どの期への書き込みも、どれひとつ同じ文章でないことも驚きましたが、
どの書き込みも、ユーモアがあって、暖かい想いが伝わってきて、楽しく読ませて頂きました。

卒業後、10年が立ち、吉田さんがおっしゃるとおり、私たちも人生の地歩を固めるための、一番大切な時期に入りました。
日々連絡を取り合う友も、卒業以来会えていない友も、首里高生みんなが毎日充実した日々を過ごしていますように!と心から願っています。

吉田さんも、これからもお元気で、首里高生のために書き込みを続けてください。よろしくお願いします。



PS.養秀同窓会の年会費(¥1000)は、どのように払えばいいですか?ぜひ払いたいです。

また、ご提案ですが、Facebookでも記事をアップしませんか?
最近はみんな、Facebookでやりとりしたり、近況を把握するので、こちらの広報能力もすごいですよ(^0^)
吉田さんがFacebookに登録したら、私はすぐフレンド申請します。

No.117 一中健児の塔後背地斜面の遊歩道整備(案) ②

2013/07/12(金) 11:10 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
一中生たちが、1949年暮れから掘り進んだ第一・第二小隊壕は、戦後の道路整備で埋没され、目視できないが、第三小隊壕と呼ばれた防空壕は、幸い、養秀会館敷地の西北角にかろうじて存続し、その東方向には、4か所の防空壕が放置されている。これらの壕は、さらに東方向にある第五砲兵司令部壕に延々と連なる一中鉄血勤皇隊活動の地帯を成し、極めて重要な意義のある「立派な史跡」であるはずである。二〇会の最下級生「最後の一中生」の有志は、このことに注目し、「鉄血勤皇隊奮闘の地」として、上記五か所の防空壕を整備・保存し、そこへ至る遊歩道を整備し、養秀会館を訪れる観光客と後輩学生たちの「歴史教育の場」として整備していくことを提案するものである。<作業概略>①駐車場東側にある鉄製階段を入口として、別図の通り、3本の遊歩道を整備し、上方の防空壕への通路とする。②4か所の防空壕の前面には、鉄血勤皇隊との関連等を解説する掲示板を設け、史跡として整備する。③上記防空壕だけでなく、将来は、県立第一中学校の学生寮「養秀寮」など、様様な史跡を開示、掲示していきたい。<計画主体;二〇会>。

No.116 一中健児の塔後背地斜面の遊歩道整備(案)

2013/07/12(金) 10:51 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
先日、最後の一中生仲間で、健児の塔の後ろに放置されている「鉄血勤皇隊奮闘の跡」防空壕を整備したい話が出て、アピールしたら、東京からも賛同と支援の申し出があり、下記の趣意書を添えて、同窓会事務局と二〇会に提出しました。<趣旨>養秀同窓会は、沖縄戦で散華した鉄血勤皇隊の御霊を慰め、世界平和を祈念するための慰霊塔、刻銘碑、資料室、健児の像、など、を整備し、毎年6月23日に盛大な慰霊祭を挙行するなど、健児たちの母校・同窓会としての最大の努力を重ねてきた。いまや、「一中健児の塔」は、首里城、玉陵と並んで、観光および平和学習のルートとして、定着しつつあり、四季を通じて多くの観光客と歴史学習グループの訪問するところとなっている。ところが、訪れる人々は、資料室で写真、遺言、遺品等を見学し、刻銘碑を参拝して後、そのまま、周辺を見回して、半ば消化不良の状態で、会館を後にする。
何故の消化不良あk。それは、資料室あるいは諸種の文献図書を見て知った一中鉄血勤皇隊の「血と汗と涙の活動現場」が全く目に見える形で保存されてなく、遠く、南の空を眺めるだけの想像の世界へ放り出された感じだからである。しかしながら、よく見回すと、養秀会館敷地には、「健児たちの苦闘の現場」が現存する。慰霊塔の後背斜面の上端に防空壕が5か所、雑木・雑草に覆われて放置されているのである。

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