県立一中の戦前のグラウンドに戦後は校舎が立ち、その中に、ロマンの森ができて、数十年の間、首里高生の思い出の場所として、記憶されてきたが、最近の計画により、元の位置(現在のグラウンド)に、新しく校舎が建てられることになり、基礎工事が始まったこと。同窓生みんなの関心を集めている。そんな中、デッカイ不発弾が発見され、琉球王朝時代の遺跡もいくつか発見されて、工事は中断されたままである。不発弾は早急に処理されたが、遺跡は簡単には調査できず、校舎建設も何時の事やら。首里高校のこの位置は、琉球王将時代の王族の住まいがあったらしく、古い石垣や埋蔵品も発掘されたという。ならば、われわれ、せかせかしないで、琉球文化の残光を拝むとしようか。と、思っていたら、先日、ある学者の論文で、この場所がとんでもない重要な史跡であつことが報じられた。1689年、12月31日、琉球藩が薩摩によって潰されて、大和の一部となった1609年のはるか80年前に、高嶺徳明という俊才が、王様の兎唇(みつくち)を手術して、治したということである。第12代国王が幼いころから兎唇を患っていたことから、祖父の尚貞王も悩み、嫡子の尚純に命じて治療を急がした。当時、兎唇を外科手術で治す医者はいない。たまたま、久米36姓の一家に養子となっていた高嶺徳明という秀才(首里出身)が、貿易船に乗って、福州に滞在していて、当時麻酔による兎唇の手術で有名をはせていた黄会友という人物と出会い、三拝九拝して、秘伝の術を習い、帰国後、尚純王の指示で、現首里高校の地で、若い王子の兎唇を治療したという。