沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.125 華岡青洲から高嶺徳明までの期間

2013/11/18(月) 11:46 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
前述の記事中、高嶺徳明の手術後80年余とあるのは、115年の誤記。1804年に青洲が紀州でマンダラゲ(朝鮮朝顔)を使用して、全身麻酔をかけ、乳がん手術に成功している。現在、日本麻酔学会のシンボルマークになっている朝鮮朝顔の花は、園芸界でも好まれているようだが、花には毒がある、例である。マンダラゲの葉、花、茎、根には、心臓毒で有名なスコポラミンなどの有毒成分が含まれ、中毒例も少なくない。アメリカで、同じナス科に属するトマトを接ぎ木して、大量生産に成功し、近所の人たちと試食して、多数がパタイした事例は有名だ。

No.124 朝鮮朝顔による全身麻酔

2013/11/16(土) 15:14 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
その後、80年余の歳月を経て、紀州の医師華岡青洲がマンダラゲ(朝鮮朝顔)とトリカブトを用いて、乳がん患者に摘出手術を施した。これが、日本における全身麻酔による外科手術の嚆矢とされている。が、事際は、琉球の俊才が中国で習得した革新的な手法によって、王様の兎唇を完全に治療していたのである。尚益王は就任中立派な口髭を蓄えて、兎唇手術の跡も気づかれず、威厳を保ったといわれる。詳しいことは、ともかく、海邦養秀の旗を掲げる一中・首里高校の敷地に、正に海の邦として雄飛した先輩たちが、本邦初の(琉球藩ではあったが)外科手術に薬草を使って成功を収めていたという史実は、同窓生みんなが銘記して、母校の敷地の一角にその証としての記念碑を建ててほしいと思う次第。高嶺徳明の憲章碑は、西原の琉球大学医学部構内に建立されているが、これとは別に、わが首里高校の地に立派な碑をと望む者である。

No.123 首里高校構内の遺跡

2013/11/16(土) 14:53 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
県立一中の戦前のグラウンドに戦後は校舎が立ち、その中に、ロマンの森ができて、数十年の間、首里高生の思い出の場所として、記憶されてきたが、最近の計画により、元の位置(現在のグラウンド)に、新しく校舎が建てられることになり、基礎工事が始まったこと。同窓生みんなの関心を集めている。そんな中、デッカイ不発弾が発見され、琉球王朝時代の遺跡もいくつか発見されて、工事は中断されたままである。不発弾は早急に処理されたが、遺跡は簡単には調査できず、校舎建設も何時の事やら。首里高校のこの位置は、琉球王将時代の王族の住まいがあったらしく、古い石垣や埋蔵品も発掘されたという。ならば、われわれ、せかせかしないで、琉球文化の残光を拝むとしようか。と、思っていたら、先日、ある学者の論文で、この場所がとんでもない重要な史跡であつことが報じられた。1689年、12月31日、琉球藩が薩摩によって潰されて、大和の一部となった1609年のはるか80年前に、高嶺徳明という俊才が、王様の兎唇(みつくち)を手術して、治したということである。第12代国王が幼いころから兎唇を患っていたことから、祖父の尚貞王も悩み、嫡子の尚純に命じて治療を急がした。当時、兎唇を外科手術で治す医者はいない。たまたま、久米36姓の一家に養子となっていた高嶺徳明という秀才(首里出身)が、貿易船に乗って、福州に滞在していて、当時麻酔による兎唇の手術で有名をはせていた黄会友という人物と出会い、三拝九拝して、秘伝の術を習い、帰国後、尚純王の指示で、現首里高校の地で、若い王子の兎唇を治療したという。

No.122 剛健進取=リーダーシップ

2013/09/21(土) 10:19 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
先日、職場に一中の大先輩が来られて、しばし雑談の時、「おれは、いまでも一中時代の四字熟語を胸において、長寿を心掛けている」といわれた。そのことを小生も反芻しながら、まだ記憶にある自分の四字熟語を一つ一つ噛みしめていると、先日、毎日新聞のコラムにピタリの論説がのっているのをみた。「日本人に欠けているのは英語力でも、論理的思考でもなく、リーダーシップだ。グループの先頭に立って引っ張る力量といった狭い話ではなく、”目先の問題解決に率先して当たる積極的な態度だ」という。子供でも大人でも、男女を問わず、いつも心の中に発生する様々な情念や思惑から、一つだけあるいは優先順位つきのいくつかを決めて、とっさに拾い上げる能力だという。”乳母車を抱えたお母さんが階段を上がる脇をすり抜けていく人”。”高齢者が立っている前でスマホに興じる若者”。日常的にリーダーシップを発揮する習慣がないから、恥ずかしさと億劫さが先に立ち、とっさの一声がでない、行動を起こさない。グループの先に立つのでもない。自分の心の中で、”剛健進取”そのままに、日々の心の中にダイナモを持ち、振る舞う。これを、剛健進取と、小生なりに解釈した。剛健進取と聞くと、髭モジャのサムライ風の男子のキャッチフレーズのような感じだが、めいめいの心の中に、「ゴーケン」「シンシュ」と呟きながら、日常の雑事・難問題に対応して行こうと、小生、一中の大先輩の後姿を拝むのだった。

No.121 一中魂とは

2013/09/12(木) 11:34 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
先日、小生の勤める老人施設「デイケアセンター」に、一人のお年寄りが来られた。お年は、85歳。いろいろお話を伺っているうちに、なんと、県立一中の大先輩だということが判り、小生、思わず起立して、最敬礼した。昭和20年、終戦時には、たまたま、長崎で徴用されていて、炭鉱の中でツルハシを振るっていたので、長崎の原爆を免れ、以後、「長生きしてしまったよ」と、豪快に笑っておられる。寄る年波には勝てず、耳は遠いし、足はガクガクとおっしゃるが、背は真っ直ぐに、話す言葉もはっきりして、矍鑠。「どうして、そんなに、お元気なんですか」とお聞きすると、「きみ、与えられた命として、大事にしながら、悠々と生きるのだよ。剛健進取、臥薪嘗胆、確固不抜!、と、一中で叩き込まれた精神を支えにしとるのだ」と。小生も昭和19年に憧れの一中に入学し、勇んでいたとき、藤野校長先生や、先輩たちが、「シツジツゴウケン、ガシンショウタン、ベイエイゲキメツ、イチオクイッシン」などと、意味ほとんど不明の4字熟語を暗唱させられたことを思い出し、先輩に同調するのだった。そういえば、一億一心、米英撃滅などのような敵愾心をあおるフレーズは今は、思い出したくもないが、剛健進取、臥薪嘗胆とか、刻苦勉励などは、いまでも、己を奮い立たせるとき、ときどき思い出しては、こっそりハッスルする。

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