沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.140 健児隊遺跡④ 第三小隊壕跡

2014/10/23(木) 10:20 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
「篠原坂」に第二小隊壕を掘り進むうちに、これだけでは百名余の生徒を収容しけれないと考えた篠原中尉は、急拠、東側のこの地点(養秀会館敷地西北角)からも壕を掘り、途中で繋ぐ方法を考えた。幅3メートル、天井は立って歩ける2メートルぐらいの高さにした。第二小隊壕と連結し、総延長48メートルの一中鉄血勤皇隊の拠点となる壕が完成した。完成まで4時間交代で6回勤務。24時間ぶっ通しで掘る作業に、藤野校長も上半身裸にあんり、禿げ頭に鉢巻を締め、率先垂範された。

No.139 一中健児隊遺跡③ 第二小隊壕跡

2014/10/23(木) 10:11 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
第一小隊壕を掘り進むうちに、篠原中尉は、総勢百名余の勤皇隊全員を収容するには狭すぎると判断して、坂の東側のこの位置(現民家の裏)に第二の壕を掘ることにした。間口1メートル、高さ1,4メートルの入口を4メートルの間隔をおいて、東方向に二つ掘った(戦後、道路工事で埋め立てられて、現在目視できない)。同時に東から掘り進められた第三小隊壕と連結して、全長38メートルとなった。第三小隊壕跡は、養秀会館敷地に保存されている。(見学可)

No.138 健児隊遺跡②沖縄一中鉄血勤皇隊・第一小隊壕

2014/10/23(木) 10:02 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昭和19年(1944)十月十日の米軍による突然の大空襲を受けて、第三十二軍は、県内至る所に防空壕を掘ることを奨励した。県立一中の配属将校篠原中尉は、早速、校舎の近くにある坂の途中に堅牢な地下壕を掘ることを計画。まず、五年生の特設班を中心に、この地点(現安国寺境内地下)に掘削を始めた。横一メートル、高さ一~二メートルの横穴を開け、一〇メートル西方向に進んだところで、南側に出口を設けて(四月六日)、出入りした。ここは、勤皇隊の本部壕として使い、その西側のアカギの林(現、民間駐車場)に炊事場を設けて、持久戦に備えた。五月四日、那覇の西にあるチービシから飛来した砲弾が炸裂して、勤皇隊二度目の犠牲者(三名)が出た。

No.137 遺跡①篠原坂

2014/10/22(水) 16:52 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
旧称「玉御陵坂(タマウドゥンザカ)。この坂は、琉球王国時代、首里城から金城町を経て識名台地・識名園に達する道として掘削されたが、沖縄一中鉄血勤皇隊が結成された昭和19年(1944年)暮れから、坂の左右に壕が掘られて、勤皇隊の活動の拠点となった。配属将校篠原保司中尉が、およそ百名の勤皇隊学生を指導し、時にわが子わが兄弟のように愛護し、共に戦った場所として、生存者「二〇会」からの敬慕の気持ちを込めて「篠原坂」と命名された。

No.136 沖縄一中鉄血勤皇隊を偲ぶ遺跡

2014/10/22(水) 16:42 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
映像によるこのような展示は、見る人をして厳粛な気持ちにさせ、平和への希求を改めて高める作用は確かにある。しかし、養秀会館の立地するこの千坪の敷地には、配属将校篠原保司中尉の指導の下、国難に殉ずるとする至誠の命を燃え上がらせつつ、振るい励んだ一中健児らの行動の軌跡が至る所に残されていることを忘れてはならない。急拠構築された地下壕、古参兵の暴虐に耐えた使役の現場、米軍機動部隊からの艦砲射撃による級友の爆死、米軍上陸直前に執り行われ「日本一の卒業式」と島田県知事が評した闇夜の卒業式、沖縄一中鉄血勤皇隊の結成、爆雷を抱えての対戦車肉弾攻撃練習、分隊に分かれて南の戦場に出ていくまでの半年の間に繰り広げられた健児たちの行動の現場が、草に覆われて、放置されている現況を嘆くのは、小生だけだろうか。

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