沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.145 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑧ 養秀寮跡

2014/10/23(木) 14:01 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
1940年(昭和15年)、日本全体が紀元2600年を祝う記念行事に沸いていたとき、一中では、創立60周年の記念行事として学生寮の建設が進んでいた。金城町一番地にあった當山家の敷地4950平方メートルの土地代を含めた総工費4万円は、交友会(現在の同窓会)、父兄会など多くの有志の協力で、確保された。そして、12月9日木の香も新しく木造二階建て600平方メートルの「養秀寮」が完成、落成式が行われた。養秀寮正門の左には「沖縄県立第一中学校養秀寮」、右には「興亜学徒錬成道場」と墨書された看板が掲げられた。その後5年間は、平和時の錬成が続いたが、戦時の荒波がこの寮を襲い、多くの犠牲者を生む修羅場となることを誰も予想できなかった。

No.144 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑦ 医務室壕跡

2014/10/23(木) 13:47 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
米軍上陸に備えて日夜三交代で掘り進められた壕。隆起サンゴ礁石灰岩からなる厚さ5メートルほどもある岩層の下の粘板岩は硬く、ツルハシだけでの掘削は難渋した。栄養不良と過労から、やがて隊員たちにアメーバ赤痢にかかる者が続出。治療のために絶食させられた隊員たちは、この自然壕に運ばれ,静養させられた。これらの自然壕は、昔、庶民の墓として掘られて利用されていたものだが、尚敬王の時代(1@@@年代)、宰相蔡温の指示で撤去させられた古墓であった。首里城台地の南斜面には、このような古墓がいくつも現存する。

No.143 一中健児隊遺跡 ⑥ 教導兵詰所跡

2014/10/23(木) 11:21 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
教導兵に顔が腫れ上がるほど殴られ、「俺たちだってお国のために戦っているのに・・・」と泣いて悔しがった隊員。「戦闘になったら、後ろから手榴弾を投げてやる」と恨む隊員さえ出始めた。 壕内の空気は日に日に険しくなった。ある日。隊員の一人が、篠原隊長に状況を報告した。隊員が寝静まった深夜、隊長は、第二小隊壕前(篠原坂)に教導班9人を整列させ、いきなり一人一人張り飛ばしていった。「俺が貴様らにビンタを飛ばす理由は、言わずともわかるだろう。鉄血勤皇隊はこの戦争でわれわれと共に戦い、共に死んでいく身だ。それを貴様らは訓練・指導に名を借りて痛めつける。少しは労わってやれ。以後、私的制裁は厳禁する」。

No.142 一中健児隊遺跡 ⑤ 教導兵詰所跡

2014/10/23(木) 11:10 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
鉄血勤皇隊全員に軍装・装備が支給された昭和20年3月29日、勤皇隊を兵員として訓練・指導するため、第5砲兵司令部から9名の教導兵が派遣されてきた。班長の渡辺見習士官は温厚で人格者だったが、残りの古参兵は、至極獰猛な性質で、しばしば一中生を殴り飛ばした。教導兵の横暴と苛烈な体罰はk戦火に比例して激しさを増していった。「お前らは、あと6ッか月もしたら幹部候補生になり、われわれの上官になる身だから、今のうちに気合いを入れておいてやる」。絶望的な戦いを控えてのやり場のない鬱憤晴らしを、年端もいかない少年兵(勤皇隊員)に向けたのである。

No.141 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑤ 銃器庫跡

2014/10/23(木) 10:36 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
第三小隊壕東側のこの地点に、古い墓の岩穴(現存)があり、勤皇隊の銃器が収納されていた。九九式歩兵銃、小銃弾、手榴弾、時代遅れの三八式歩兵銃は、教練用の古い銃など、貧弱そのものだったが、五月に入り、いよいよ米軍の前線が首里に迫った頃、敵戦車への体当たり作戦のために、対戦車用三式手投げ爆雷(重さ3キロの円錐形で、手首に紐を巻いて投げると点火・爆発する肉薄攻撃用兵器)などの急造爆雷が持ち込まれた。生徒一人ひとりは、蛸壷から飛び出して敵戦車に爆雷と共に飛び出していく肉弾攻撃に参加した。

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