2011/10/03(月) 16:00 - 3-8 組 M (男)
SF作家の小松左京が亡くなった。
個人的にとても思い入れのある人なので、いわく言い難い感慨がある。
小松左京への追悼のコメントをいくつか目にしたが、どれもこれも、いまひとつ臍(ほぞ)に落ちな
いものばかりだった。それというのも、小松左京という人物の全体像に触れ得たコメントがひとつも
なかったからだ。
それはそれで仕方のないことではある。
小松左京の全体像を紹介しようと思ったら、紹介するほうも、本人と同程度の知識量と視野の広
さを持たなければならないが、そんなことは無理だからだ。
13世紀のパリで活動したキリスト教神学者で、「コメストル(大食漢)」と渾名された学僧がいる。
知的欲求の塊のような男だったようで、本をむさぼり食うように読破していったことからその名が進
呈されたらしいのだが、小松左京もまた、常軌を逸した「知の大食漢」だった。この世の森羅万象に
関わるありとあらゆる知識を喰らい、ガブ呑みしていった人物だった。
猛然たる勢いで次々に作品を発表していたころの小松左京が、「SF界のブルドーザー」と呼ばれ
ていたことは有名な話だが、私に言わせれば、ブルドーザーという表現でもおとなしすぎるというも
ので、その知識の積載量と思考のスケールの大きさからすれば、ブルドーザーというよりも大型タ
ンカーを思わせる存在だった。
そんな人物が相手となれば、群盲が象を撫でるようなコメントばかりになるのも、仕方がなかった
だろう。かくいう私自身、小松左京とは何者だったのかと問われれば、言葉を失って口ごもるほか
はない。
しかし、そうはいいながらも、なかにはかなり的外れなコメントがあったのも事実で、批評家・東浩
紀のコメント(NHK科学文化部ブログに掲載)などは、その代表格といったところだろう。
東日本大震災を念頭に置いてのことだろうが、東は、小松左京の代表作である『日本沈没』に触
れて、「決して後ろ向きな作品ではなく、政府や官僚の努力がいかに日本を救うかというもので、ど
んな困難も乗り越えることができるという未来に向かって非常に強い前向きなメッセージが込めら
れたものだった」と、コメントしている。
こんな浅い読みしかできないようでは、「批評家」の肩書きが泣くというものだ。小松左京も立つ
瀬がないだろう。
東は知らないらしいが、数年前に出した回想録『SF魂』(新潮新書)のなかで、小松左京は、『日
本沈没』執筆の動機を次のように明かしている。
なぜ『日本沈没』を書いたかと言われれば、やはり「一億玉砕」「本土決戦」への引っかかりが
あったからだ。
ちょうど1963年に林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」が出て、その種の論調が勢いを持ち始
めていて、僕はどうもそれが気に入らなかった。(略)
政府も軍部も国民も、「一億玉砕」と言って、本当に日本国民がみんな死んでもいいと思って
いたのか。日本という国がなくなってもいいと思っていたのか。だったら、一度やってみたらどうだ
――そこから、日本がなくなるという設定ができないかと考え始めた。
つまり、『日本沈没』は、本土決戦で日本が滅亡していたら、国家を失った日本人はどうなってい
たか、国を失っても日本人は日本人たりえるのかを、戦争による国家の破滅ではなく、地殻変動に
よる国土の消失という形に置き換えて、シミュレートした小説だったのである。
敗戦時、旧制中学の学生だった小松左京は、政府や官僚が日本を滅ぼしかけたあの戦争にこ
だわり続けた人物だった。そして、その戦争へのこだわりが、『日本沈没』という作品に結実したの
である。
『日本沈没』が、東のいうような、「政府や官僚の努力がいかに日本を救うか」を描いた作品など
ではないことは、これだけでも十分に明らかだろう。
いささかムキになって東のコメントに噛みついたのには理由がある。
小松左京が抱き続けたあの戦争へのこだわりを読み取れるか否かで、小松作品の理解のレベ
ルがまるで違ってしまうからである。東のようにそれを視野から落としてしまっては、小松左京をき
ちんと論じることはできない、と思えてならないからである。
実際、〈戦争文学としての小松SF〉というくくりで、ちょっとした評論をものすことができそうな気が
してくるほどだが、小松作品のなかには、著者の戦争体験が色濃く投影されているとおぼしきもの
がいくつもある。
平穏な郊外の新興住宅街にどこからともなく武装した歩兵部隊が現れ、そこに通りかかった主人
公が自衛隊の訓練かといぶかしんでいると、目の前で突然、別の軍隊との間で本物の戦争が始ま
り…という場面から始まる「春の軍隊」も、そのひとつである。
*
日本各地に突如として出没した謎の軍隊は、彼らの戦争とは何の関係もない日本人を巻き添
えにしながら激戦を戦わせ、破壊の跡だけを残して、いつの間にかかき消えてしまう。
日本政府は困惑するが、警察ではどうしようもなく、自衛隊を出動させはするが、防衛出動な
のか、治安出動なのかで国会も混乱する。どうにか交戦中の軍隊の通信に割り込んだ日本政府
は、日本国内からの即時撤退を求め、応じなければ自衛隊による武力制圧もやむなしと警告を
発するが、逆に戦術核による反撃をほのめかされ、衝撃を受ける。
主人公が住む住宅街では、国籍不明の軍隊と自衛隊による三つ巴の戦闘が勃発し、閑静な
住宅地は激戦場と化す。夜が明けると、謎の軍隊の姿は影も形もなくなっており、自宅に投げ込
まれた手榴弾を放り出そうとして重傷を負った主人公は、めちゃくちゃに破壊された廃墟のなか
でただ呆然とたたずむしかなかった――。
*
日常生活のなかに不意に戦争が忍び込んでくるという同じ系譜の作品には、「春の軍隊」のほか
にも、「夢からの脱走」という中篇がある。この作品では、悪夢がひたひたと現実世界に侵襲してく
る恐怖が描かれる。
*
平凡なサラリーマンである主人公は、しばしば悪夢にうなされるようになる。
その夢の中では、日本は戦場となっているらしく、彼もまた、転戦中の部隊に兵士として属して
いるらしい。どこの国と戦っているのか、勝っているのか、敗けているのかも皆目分からないまま、
夢の中で彼は何度も戦闘に遭遇し、死線をさまようことになる。
やがて、その夢は時を選ばずに彼を戦場へと拉し去るようになり、平穏な日常と戦争とに引き
裂かれた主人公の精神は次第に壊れ始めていく。主人公は、その夢の中の戦場から脱出しよう
とするが、その結末はまさに悪夢としかいいようのないものとなる。
*
どちらの作品もカフカの『審判』を思わせる不条理劇である。
学生時代にカフカを耽読していたというだけあって、小松左京は不条理劇を書かせると実にうま
い作家だったが、特に戦争を描いた作品には秀作が多い。
小松左京には、高度経済成長に浮かれる日本社会を横目でにらみながら、日本人は戦争があ
ったことを忘れたのか、と歯噛みする思いがあったようだ。
「戦争はなかった」は、そうした思いが小松左京にペンを執らせた作品であろう。
*
著者と同世代とおぼしき主人公は、久方ぶりの同窓会の席で戦時中の思い出話を口にするが、
同窓生たちが戦争があったなんて聞いたことがないと言い出したことに激怒し、喧嘩別れしてし
まう。
ところが翌日、酔余の眼で歴史書をたぐってみると、戦争があったという記述がどこにもないこ
とに愕然とさせられる。書店からは戦記小説が、玩具店からは戦艦大和や武蔵のプラモデルが、
レコード店からは軍歌が、ことごとく消え去っている。いつの間にか、あの戦争はなかったことに
なっていた。
主人公は、友人、同僚、家族と片っ端から、戦争があったことを説き聞かせるが、誰も戦争が
あったことを知らないことに、ひょっとして狂っているのは自分のほうなのか、という疑いさえも抱
くようになる。
周囲から孤立した主人公は、《戦争はあった、多くの人々が死んだ、日本は敗けた》というプラ
カードを掲げて街頭に立つようになる。
やがて、医局の腕章を巻いた男たちと警官が現れ、主人公を精神病院の患者護送車に連れ
こもうとする。揉み合いの最中、医局員の腕章を凝視していた主人公が叫ぶ。
「わかった!――やっとわかったぞ! お前たちやっぱりかくしていたんだな。――あの戦争の
ことを…この世の中からかくしていたんだ。おれは見たぞ。お前…お前憲兵だろう! その腕章
に…」
「いま見たんだ。その腕章をうらがえしてみろ! その裏には、たしかに憲兵の腕章が…」
主人公はたちまち車に押し込められ、いずことも知れずに連れ去られてしまう――。
*
戦争の記憶にこだわり続けた主人公は、絶望的なまでの孤立状態に突き落とされるのだが、主
人公を取り巻く索漠(さくばく)とした孤立感は、あるいは小松左京自身のものでもあったかもしれな
い。
それにつけても、まるで戦争など忘れたかのような世の風潮への懐疑から発して、そこから、本
当に戦争がなかったことになったら…という不条理劇を構築してしまうところは、ストーリーテラーと
しての小松左京の面目躍如というべきだろう。
戦時中の日本はいわば国ぐるみで一種の神懸かり状態に陥っていたが、あの戦争がもたらした
狂気をサイキック・ホラーの手法で描いた作品が「召集令状」である。
この小説から醸(かも)し出される狂気と不条理には、ほかの作品を上回る生々しさがある。
*
主人公は、職場の後輩から、「これ、なんだか知りませんか?」と一枚の紙片を差し出される。
それは、戦時中の召集令状――赤紙だった。
主人公たちは手の込んだいたずらかと首を傾げるが、その数日後、後輩は失踪してしまう。や
がて、同じように召集令状を受け取っていた大勢の若者たちが行方不明になっていることが分か
り、次第に社会問題となっていく。
どこからともなく舞い込んでくる召集令状に人々が慄然とするなか、失踪した若者たちの家族
宛に戦死公報が届きはじめ、ついに日本社会はパニック状態になる。
どこかで今も続いているらしい戦争は、戦局がいよいよ逼迫(ひっぱく)してきたらしく、高校生
にまでも召集令状が届きはじめ、やがて徴兵対象は30代、40代にも及ぶようになり、とうとう主
人公にも召集令状が届く。
召集日の夜、主人公の下に召集されて失踪したばかりの同僚が失踪直前に郵送していた手
紙が届く。その内容は、この怪奇現象を何者かが惹き起こした人為的なものだと推定した上で、
その人物像を推理していくものだった。
その手紙に主人公は震撼する。なぜならば、彼はその人物を知っていたからだ――。
*
小泉純一郎の靖国参拝が政治問題となった時分、靖国神社について知りたくなって、いろいろと
関連書に目を通したことがある。
その時、A級戦犯合祀を決断した当時の靖国神社宮司の人物像を伝えるルポを読んだが、その
宮司について知れば知るほど、「召集令状」に登場するその人物――この小説の隠れた主役とい
うべきだろう――のことが思い起こされて、薄気味悪さを覚えたものである。
戦争をテーマにした作品はほかにもある(「地には平和を」、「くだんのはは」)が、小松左京が戦
争を意識し続け、SF的手法を凝らして戦争の不条理を描き続けた作家だったことを知ってもらうに
は、もう十分だろう。
司馬遼太郎が、昭和の日本への失望を起点として、数々の作品を書き上げていったことはよく知
られている。敗戦直後の心情について、司馬はこう語っている。
「なんとくだらない戦争をしてきたのかと、まず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろ
してきた国に生まれたのだろうと思いました。敗戦の日から数日、考え込んでしまったのです。昔の
日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後に私の日本史への関心になったわけ
ですね。(略)
いったい、こういうバカなことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、日本人とは何
か、ということの最初の疑問となりました」(司馬遼太郎『「昭和」という国家』)
日本のサル学研究――日本が世界をリードしてきた学問分野――のパイオニアのひとりである
河合雅雄も、自らのサル研究の出発点に戦争体験があったことを述べている。
「戦争が終わってみて、何で人間は、こんなバカげたことをするんだろうと思った。こんなことをする
人間の人間性というものを、もう一度その大元にまで立ち返って、探ってみようと思った。そのため
には、サルまで立ち返って人間性の根源まで調べてみにゃならんと思った」(立花隆『サル学の現
在』)
小松左京の原点にあったのも、このふたりと同様の問いかけ――こういうバカなことをやる国と
は何なのか、人間はなぜこんなバカげたことをするのか、という問いかけだった。
小松左京は、司馬のように日本とは何か、日本人とは何かを問い、河合と同じく人間という存在
の大元は何かを問い続けたが、しかし、その問いはやがて、我々が存在しているこの宇宙とは何
か、宇宙にとっての人間の存在意義とは何かを問うものにまでなってゆき、そして、その知的自問
自答をつうじて、余人には追随し難いほどの巨大な知的世界を構築したのだった。
――小松左京という人は、桁外れにスケールの大きな人物だった。
ただこの一言が言いたくて書き始めたのだが、思いばかりが先走ってあれこれと書き散らした。
しかもそれでいて、肝心なことにはついに触れ得なかったような気がする。
浮き輪で大型タンカーに挑むような無謀なことはすべきではなかったかもしれない。