沖縄県立首里高等学校:49期 掲示板

No.287 49期生同期会

2012/01/31(火) 15:46 - 11 組 同窓会幹事 ()
1月も今日で終わり。明日からもう2月ですね。
今年はロンドンオリンピックの年ですので、恒例の49期生同期会を開催します。
前回は8月に行いましたが、今年はまだ未決定です。
たぶん8~10月あたりにしたいな~って思ってますので、
決定次第、またお知らせいたします。
皆さんのご参加、宜しくお願いいたします。

No.285 じゅんべーが結婚します。

2011/11/11(金) 21:07 - 東京から ()
明日じゅんべーが結婚します。

電話くれました。出席できなくてごめん。電話ありがとう。

おめでとう!ごめんなさい。電話うれしかったよ。

どっかにつぶやきたかった。。ありがとう。お幸せに。

No.284 追悼・小松左京

2011/10/03(月) 16:00 - 3-8 組 M ()
 SF作家の小松左京が亡くなった。
 個人的にとても思い入れのある人なので、いわく言い難い感慨がある。

 小松左京への追悼のコメントをいくつか目にしたが、どれもこれも、いまひとつ臍(ほぞ)に落ちな
いものばかりだった。それというのも、小松左京という人物の全体像に触れ得たコメントがひとつも
なかったからだ。

 それはそれで仕方のないことではある。
 小松左京の全体像を紹介しようと思ったら、紹介するほうも、本人と同程度の知識量と視野の広
さを持たなければならないが、そんなことは無理だからだ。

 13世紀のパリで活動したキリスト教神学者で、「コメストル(大食漢)」と渾名された学僧がいる。
知的欲求の塊のような男だったようで、本をむさぼり食うように読破していったことからその名が進
呈されたらしいのだが、小松左京もまた、常軌を逸した「知の大食漢」だった。この世の森羅万象に
関わるありとあらゆる知識を喰らい、ガブ呑みしていった人物だった。
 猛然たる勢いで次々に作品を発表していたころの小松左京が、「SF界のブルドーザー」と呼ばれ
ていたことは有名な話だが、私に言わせれば、ブルドーザーという表現でもおとなしすぎるというも
ので、その知識の積載量と思考のスケールの大きさからすれば、ブルドーザーというよりも大型タ
ンカーを思わせる存在だった。

そんな人物が相手となれば、群盲が象を撫でるようなコメントばかりになるのも、仕方がなかった
だろう。かくいう私自身、小松左京とは何者だったのかと問われれば、言葉を失って口ごもるほか
はない。
 しかし、そうはいいながらも、なかにはかなり的外れなコメントがあったのも事実で、批評家・東浩
紀のコメント(NHK科学文化部ブログに掲載)などは、その代表格といったところだろう。
 東日本大震災を念頭に置いてのことだろうが、東は、小松左京の代表作である『日本沈没』に触
れて、「決して後ろ向きな作品ではなく、政府や官僚の努力がいかに日本を救うかというもので、ど
んな困難も乗り越えることができるという未来に向かって非常に強い前向きなメッセージが込めら
れたものだった」と、コメントしている。

 こんな浅い読みしかできないようでは、「批評家」の肩書きが泣くというものだ。小松左京も立つ
瀬がないだろう。

 東は知らないらしいが、数年前に出した回想録『SF魂』(新潮新書)のなかで、小松左京は、『日
本沈没』執筆の動機を次のように明かしている。

  なぜ『日本沈没』を書いたかと言われれば、やはり「一億玉砕」「本土決戦」への引っかかりが
 あったからだ。
  ちょうど1963年に林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」が出て、その種の論調が勢いを持ち始
 めていて、僕はどうもそれが気に入らなかった。(略)
  政府も軍部も国民も、「一億玉砕」と言って、本当に日本国民がみんな死んでもいいと思って
 いたのか。日本という国がなくなってもいいと思っていたのか。だったら、一度やってみたらどうだ
 ――そこから、日本がなくなるという設定ができないかと考え始めた。

 つまり、『日本沈没』は、本土決戦で日本が滅亡していたら、国家を失った日本人はどうなってい
たか、国を失っても日本人は日本人たりえるのかを、戦争による国家の破滅ではなく、地殻変動に
よる国土の消失という形に置き換えて、シミュレートした小説だったのである。

 敗戦時、旧制中学の学生だった小松左京は、政府や官僚が日本を滅ぼしかけたあの戦争にこ
だわり続けた人物だった。そして、その戦争へのこだわりが、『日本沈没』という作品に結実したの
である。
 『日本沈没』が、東のいうような、「政府や官僚の努力がいかに日本を救うか」を描いた作品など
ではないことは、これだけでも十分に明らかだろう。

 いささかムキになって東のコメントに噛みついたのには理由がある。
 小松左京が抱き続けたあの戦争へのこだわりを読み取れるか否かで、小松作品の理解のレベ
ルがまるで違ってしまうからである。東のようにそれを視野から落としてしまっては、小松左京をき
ちんと論じることはできない、と思えてならないからである。

 実際、〈戦争文学としての小松SF〉というくくりで、ちょっとした評論をものすことができそうな気が
してくるほどだが、小松作品のなかには、著者の戦争体験が色濃く投影されているとおぼしきもの
がいくつもある。

 平穏な郊外の新興住宅街にどこからともなく武装した歩兵部隊が現れ、そこに通りかかった主人
公が自衛隊の訓練かといぶかしんでいると、目の前で突然、別の軍隊との間で本物の戦争が始ま
り…という場面から始まる「春の軍隊」も、そのひとつである。
                   *
  日本各地に突如として出没した謎の軍隊は、彼らの戦争とは何の関係もない日本人を巻き添
 えにしながら激戦を戦わせ、破壊の跡だけを残して、いつの間にかかき消えてしまう。
  日本政府は困惑するが、警察ではどうしようもなく、自衛隊を出動させはするが、防衛出動な
 のか、治安出動なのかで国会も混乱する。どうにか交戦中の軍隊の通信に割り込んだ日本政府
 は、日本国内からの即時撤退を求め、応じなければ自衛隊による武力制圧もやむなしと警告を
 発するが、逆に戦術核による反撃をほのめかされ、衝撃を受ける。
  主人公が住む住宅街では、国籍不明の軍隊と自衛隊による三つ巴の戦闘が勃発し、閑静な
 住宅地は激戦場と化す。夜が明けると、謎の軍隊の姿は影も形もなくなっており、自宅に投げ込
 まれた手榴弾を放り出そうとして重傷を負った主人公は、めちゃくちゃに破壊された廃墟のなか
 でただ呆然とたたずむしかなかった――。
                   *
 日常生活のなかに不意に戦争が忍び込んでくるという同じ系譜の作品には、「春の軍隊」のほか
にも、「夢からの脱走」という中篇がある。この作品では、悪夢がひたひたと現実世界に侵襲してく
る恐怖が描かれる。
                   *
  平凡なサラリーマンである主人公は、しばしば悪夢にうなされるようになる。
  その夢の中では、日本は戦場となっているらしく、彼もまた、転戦中の部隊に兵士として属して
 いるらしい。どこの国と戦っているのか、勝っているのか、敗けているのかも皆目分からないまま、
 夢の中で彼は何度も戦闘に遭遇し、死線をさまようことになる。
  やがて、その夢は時を選ばずに彼を戦場へと拉し去るようになり、平穏な日常と戦争とに引き
 裂かれた主人公の精神は次第に壊れ始めていく。主人公は、その夢の中の戦場から脱出しよう
 とするが、その結末はまさに悪夢としかいいようのないものとなる。
                   *
 どちらの作品もカフカの『審判』を思わせる不条理劇である。
 学生時代にカフカを耽読していたというだけあって、小松左京は不条理劇を書かせると実にうま
い作家だったが、特に戦争を描いた作品には秀作が多い。

 小松左京には、高度経済成長に浮かれる日本社会を横目でにらみながら、日本人は戦争があ
ったことを忘れたのか、と歯噛みする思いがあったようだ。
 「戦争はなかった」は、そうした思いが小松左京にペンを執らせた作品であろう。 
                   *
  著者と同世代とおぼしき主人公は、久方ぶりの同窓会の席で戦時中の思い出話を口にするが、
 同窓生たちが戦争があったなんて聞いたことがないと言い出したことに激怒し、喧嘩別れしてし
 まう。
  ところが翌日、酔余の眼で歴史書をたぐってみると、戦争があったという記述がどこにもないこ
 とに愕然とさせられる。書店からは戦記小説が、玩具店からは戦艦大和や武蔵のプラモデルが、
 レコード店からは軍歌が、ことごとく消え去っている。いつの間にか、あの戦争はなかったことに
 なっていた。
  主人公は、友人、同僚、家族と片っ端から、戦争があったことを説き聞かせるが、誰も戦争が
 あったことを知らないことに、ひょっとして狂っているのは自分のほうなのか、という疑いさえも抱
 くようになる。
  周囲から孤立した主人公は、《戦争はあった、多くの人々が死んだ、日本は敗けた》というプラ
 カードを掲げて街頭に立つようになる。
  やがて、医局の腕章を巻いた男たちと警官が現れ、主人公を精神病院の患者護送車に連れ
 こもうとする。揉み合いの最中、医局員の腕章を凝視していた主人公が叫ぶ。
 「わかった!――やっとわかったぞ! お前たちやっぱりかくしていたんだな。――あの戦争の
 ことを…この世の中からかくしていたんだ。おれは見たぞ。お前…お前憲兵だろう! その腕章
 に…」
 「いま見たんだ。その腕章をうらがえしてみろ! その裏には、たしかに憲兵の腕章が…」
  主人公はたちまち車に押し込められ、いずことも知れずに連れ去られてしまう――。
                   *
 戦争の記憶にこだわり続けた主人公は、絶望的なまでの孤立状態に突き落とされるのだが、主
人公を取り巻く索漠(さくばく)とした孤立感は、あるいは小松左京自身のものでもあったかもしれな
い。
 それにつけても、まるで戦争など忘れたかのような世の風潮への懐疑から発して、そこから、本
当に戦争がなかったことになったら…という不条理劇を構築してしまうところは、ストーリーテラーと
しての小松左京の面目躍如というべきだろう。

 戦時中の日本はいわば国ぐるみで一種の神懸かり状態に陥っていたが、あの戦争がもたらした
狂気をサイキック・ホラーの手法で描いた作品が「召集令状」である。
 この小説から醸(かも)し出される狂気と不条理には、ほかの作品を上回る生々しさがある。
                   *
  主人公は、職場の後輩から、「これ、なんだか知りませんか?」と一枚の紙片を差し出される。
 それは、戦時中の召集令状――赤紙だった。
  主人公たちは手の込んだいたずらかと首を傾げるが、その数日後、後輩は失踪してしまう。や
 がて、同じように召集令状を受け取っていた大勢の若者たちが行方不明になっていることが分か
 り、次第に社会問題となっていく。
  どこからともなく舞い込んでくる召集令状に人々が慄然とするなか、失踪した若者たちの家族
 宛に戦死公報が届きはじめ、ついに日本社会はパニック状態になる。
  どこかで今も続いているらしい戦争は、戦局がいよいよ逼迫(ひっぱく)してきたらしく、高校生
 にまでも召集令状が届きはじめ、やがて徴兵対象は30代、40代にも及ぶようになり、とうとう主
 人公にも召集令状が届く。
  召集日の夜、主人公の下に召集されて失踪したばかりの同僚が失踪直前に郵送していた手
 紙が届く。その内容は、この怪奇現象を何者かが惹き起こした人為的なものだと推定した上で、
 その人物像を推理していくものだった。
  その手紙に主人公は震撼する。なぜならば、彼はその人物を知っていたからだ――。
                   *
 小泉純一郎の靖国参拝が政治問題となった時分、靖国神社について知りたくなって、いろいろと
関連書に目を通したことがある。
 その時、A級戦犯合祀を決断した当時の靖国神社宮司の人物像を伝えるルポを読んだが、その
宮司について知れば知るほど、「召集令状」に登場するその人物――この小説の隠れた主役とい
うべきだろう――のことが思い起こされて、薄気味悪さを覚えたものである。

 戦争をテーマにした作品はほかにもある(「地には平和を」、「くだんのはは」)が、小松左京が戦
争を意識し続け、SF的手法を凝らして戦争の不条理を描き続けた作家だったことを知ってもらうに
は、もう十分だろう。

 司馬遼太郎が、昭和の日本への失望を起点として、数々の作品を書き上げていったことはよく知
られている。敗戦直後の心情について、司馬はこう語っている。
「なんとくだらない戦争をしてきたのかと、まず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろ
してきた国に生まれたのだろうと思いました。敗戦の日から数日、考え込んでしまったのです。昔の
日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後に私の日本史への関心になったわけ
ですね。(略)
 いったい、こういうバカなことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、日本人とは何
か、ということの最初の疑問となりました」(司馬遼太郎『「昭和」という国家』)

 日本のサル学研究――日本が世界をリードしてきた学問分野――のパイオニアのひとりである
河合雅雄も、自らのサル研究の出発点に戦争体験があったことを述べている。
「戦争が終わってみて、何で人間は、こんなバカげたことをするんだろうと思った。こんなことをする
人間の人間性というものを、もう一度その大元にまで立ち返って、探ってみようと思った。そのため
には、サルまで立ち返って人間性の根源まで調べてみにゃならんと思った」(立花隆『サル学の現
在』)

 小松左京の原点にあったのも、このふたりと同様の問いかけ――こういうバカなことをやる国と
は何なのか、人間はなぜこんなバカげたことをするのか、という問いかけだった。
 小松左京は、司馬のように日本とは何か、日本人とは何かを問い、河合と同じく人間という存在
の大元は何かを問い続けたが、しかし、その問いはやがて、我々が存在しているこの宇宙とは何
か、宇宙にとっての人間の存在意義とは何かを問うものにまでなってゆき、そして、その知的自問
自答をつうじて、余人には追随し難いほどの巨大な知的世界を構築したのだった。

 ――小松左京という人は、桁外れにスケールの大きな人物だった。
 ただこの一言が言いたくて書き始めたのだが、思いばかりが先走ってあれこれと書き散らした。
しかもそれでいて、肝心なことにはついに触れ得なかったような気がする。
 浮き輪で大型タンカーに挑むような無謀なことはすべきではなかったかもしれない。

No.283 流れ

2011/09/23(金) 03:16 - ひかり ()
色んなことがおこります。
いろんな事に気付きます。
でも止まっちゃいけない。
進むべき。

人って、すごい可能性があるから。

災害だらけの日本だけど。きっとその中から気付いて。学ぶべきこともたくさんあるはず。

何か、遠くからでも、自分なりにできることで困っている人を助けたい。

No.282 大震災について・2

2011/07/07(木) 17:03 - 3-8 組 M ()
 福島第1原発の状況は依然として事態収拾の見込みが立たず、事故の深刻さが改めて浮き彫りにされつつあります。今回は原発事故に関する本を取り上げます。

×月×日
 昨年の8月に出版された本だが、期せずして予言の書になってしまった観があるのが、広瀬隆
『原子炉時限爆弾――大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)である。
 原発をテーマにペンを取るのは十数年ぶりということだが、広瀬隆といえば、『ジョン・ウェインは
なぜ死んだか』、『東京に原発を!』などの著作をつうじて反原発の論客として知られる人物。近年
は、『赤い楯』、『私物国家』など、国際政治や世界経済の裏で暗躍する闇の勢力に関する一連の
著作を発表している。
 私はこの人には好感を抱いていないが、この本から教えられるところは少なくなかった。広瀬が
過去に発表してきた原発本も何冊か読んでみたが、それで分かったことは、広瀬が大地震や津波
によって原発が破壊される危険性(「原発震災」と呼ばれる)に繰り返し警鐘を鳴らしていた、という
ことである。福島で起きた事態は決して「想定外」のものではなかったのだ。
 この本で危険性が切迫していると名指しされているのが、中部電力・浜岡原子力発電所(静岡県
御前崎市)である。周知のとおり、菅首相からの要請を受けた中部電力は浜岡原発の運転停止を
決定したばかりである。
 反原発論者の間では、浜岡原発の危険性はかなり前から指摘されていたらしいが、たしかにこ
の本を読んでみると、よくもこんな危険な土地に原発を建造したものだと背筋が寒くなってくる。
 最近、菅首相の浜岡原発の運転停止要請が批判されている(法的な根拠がないなど)が、この
本を読めば、ある種の超法規的措置を講じる形になっても、浜岡原発を停止させたことは正しかっ
たと思えるはずである(なお、誤解がないように言い添えておくと、私は浜岡原発の運転停止は支
持するが、全ての原発を即時停止せよという意見には反対である)。
 浜岡原発が立地する御前崎は、ユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込み、さ
らにそのフィリピン海プレートの下に太平洋プレートが沈み込むという複雑な地下構造になってい
る。直下型の大地震の発生が懸念される地震の巣なのである。広瀬に言わせると、「このように三
重の重なりがある危険地域は、世界中でここしかない」という。
 どうしてそんな危険な場所に原発が建設されたのだろうか。
 その理由のひとつとして、日本で原発建設が本格的に始動しはじめた時期というのが、地震に
関してほとんど何も分かっていない時代(地震科学の基礎理論であるプレートテクトニクス理論が
まだ確立されていなかった)だったことを広瀬は指摘している。
 アルフレート・ヴェーゲナーが提唱した大陸移動説が、より精緻なプレートテクトニクス理論として
まとめられたのが1968年のことだが、その翌年の1969年に浜岡原発1号機の建設が決定され
ている(ちなみに福島第1原発1号機の原子炉設置許可が下りたのは、さらにさかのぼって1966
年)。当然のことながら、この時期に建設が始まった原発の設計・建設にあたっては、プレートテク
トニクス理論に基づく知見は用いられていない。
 広瀬によると、1964年に策定された原子炉立地審査指針(原発の建設地点を決定する際の原
則を定めたもの)には、「地震が多発する場所に原発を建設してはならない」という定めがそもそも
なかったという。驚くべきことだが、日本の初期の原発は事実上、地震災害のリスクを考慮せずに
建設されてきたといえる。
 その後、原発施設の耐震強度が1978年に定められる(浜岡原発はその2年前からすでに運転
を開始)が、それ以降、電力各社は、原発はもともと頑丈に造られているので、既存の原発も耐震
強度をクリアしていると説明してきた。しかし、初期の建設基準の甘さとその後の原発の老朽化を
考え合わせると、この説明はとうてい信用できないと広瀬は言う。
 浜岡原発の運転停止要請という踏み込んだ決断をした菅首相も、そのほかの原発については、
安全性に問題はないという逃げの姿勢である。政府は国内の全原発について安全性の徹底的な
再検証を行うべきだ。

×月×日
 今回の事故による放射能汚染について知りたいと思って手に取ってみたのが、武田邦彦『原発
事故 残留汚染の危険性』(朝日新聞出版)である。
 タイトルからてっきり残留放射能による危険性が検証されていると思ったのだが、実際に読んで
みると、この本の記述のほとんどは、地震と津波によって原発がなぜ破壊されたのかという分析に
割かれていて、放射能汚染の危険性についての記述量は全体の4分の1程度である。タイトルと中
身がかみ合っていない欠陥本だが、それでも興味深いことがいくつか書かれている。
 民間会社のウラン濃縮研究所で所長を務めたことがある著者は、原子力行政の実態をうかがわ
せるような体験をしている。
 ある時、著者は、施設内のある配管に問題があることに気がつく。もしも事故が起きると、その配
管を通じてウランが海に流れ出てしまう危険性があったというから、見過ごしにはできない問題で
ある。著者はさっそく科学技術庁の担当部署に連絡を入れ、「自分の設計のミスだから始末書か何
かを書きますから配管を取り外したい」と申し入れたという。 
 ところが、科学技術庁からは配管を取り外す許可が出なかった。国が審査・認可した研究施設に
設計段階で問題があったとなれば、国の審査も間違っていたこととなり、監督官庁の責任問題にな
る。それを嫌った科技庁の担当者はとうとう許可を出さなかったという。
 しかし、安全性に問題があるという事実は動かしようがないので、著者はその配管を取り外した。
後日、科技庁の担当者から、「武田さん。あれは、武田さんが勝手に外せということにしたといって
いるんですよ」と耳打ちされたという。原子力施設の安全性を高めることよりも、官僚たちの責任回
避が優先されたのである。
 このような体験をすれば当然のことだが、著者は原子力行政に根深い不信感を抱いていて、今
回の事故の責任も、東京電力ではなく原子力安全・保安院と原子力安全委員会にあるという。著者
によると、国が定めた耐震指針のせいで日本の原発はもともと地震で壊れるようにできていたから
だ。それはどういうことか。
 原発の耐震指針は、あらかじめ想定された地震の揺れに耐えられるようにすることを定めている
が、現実には、想定震度を上回る地震に見舞われることは大いに考えられる。ところが、現在の耐
震指針では、想定震度を上回る地震に遭遇する可能性について真剣に考慮せず、「残余のリス
ク」として放置していると著者は言う。
 残余のリスクとは、原発建設前に電力会社が収集したデータからは予測することができないリス
ク(積み残しにされたリスク)のことである。ひらたくいえば「想定外のリスク」ということだ。
 著者に言わせると、残余のリスクという概念が耐震指針の中に持ち込まれたことで、「『想定内』
の地震や津波だけを考えればよく、『想定外』の場合は原発が破壊してもよい」ことになってしまっ
たという。そして、こんなおかしな概念が持ち込まれたのは、「何が起こっても実施側の責任になら
ないという抜け道をつくるため」だったのだろうと推測している。
 現行の耐震指針が策定された際、原子力安全委員会の専門委員だった著者は、「この耐震指針
では、原発が地震で破壊されることになるので、付近住民に逃げるためのオートバイと甲状腺を守
るヨウ素剤を配ったらどうか」と発言したそうだが、反応はなかったという。
 著者の意見に全て賛同する訳ではないが、この本を読んでいると、原子力開発に携わった技術
者の視点からは問題がどのように見えるのかが分かって、面白いといえば面白い。

×月×日
 東京電力も、原子力安全委員会も、原子力安全・保安院も、政府首脳も、いまだに福島第1原発
を襲った事態は想定外のものだったと言いつのっている。
 しかし、朝日新聞取材班『「震度6強」が原発を襲った』(朝日新聞社)を読めば、そんな言い訳が
通用しないことは一目瞭然である。
 覚えている人も多いだろうが、2007年7月に起きた新潟県中越沖地震では、東京電力・柏崎刈
羽原発が強烈な震動に襲われた。原子炉は緊急停止したが、施設内で発生した火災の鎮火が遅
れに遅れたことや、放射能を帯びた冷却水が海に流出するなど、原発の防災体制がまるで役に立
たないものであることが明らかになった。
 この本は、その柏崎刈羽原発の事故によって崩壊した原発安全神話を緊急検証(地震発生から
3ヶ月後に出版)したものだが、読めば読むほど腹が立ってくる。あの時の経験からちゃんと学んで
いれば、今日の事態は避けられたはずだからだ。
 柏崎刈羽原発では、建設前の地質調査で建設予定地の直下に活断層はないと判定されていた
が、実際には、原発の直下に断層が走っていた。中越沖地震ではその活断層がズレたことで、活
断層はないという前提で計算されていた想定震度をはるかに上回る、強烈な激震に原発が直撃さ
れることになった。
 なぜ原発の真下に活断層が走っていることが分からなかったのか。もともと活断層は発見しにく
いものであることに加えて、電力会社による調査方法が不適切だったからだ。
 活断層を発見するための調査方法としては、「活断層がずれ動いた影響で川や谷、尾根が不自
然にずれたり、地形がたわんだりしたと見られる場所を航空写真から探し出す」変動地形学という
手法がすでに確立されている(それでも確実に発見できる訳ではない)のだが、これまで電力会社
が行ってきた原発周辺の地質調査では、変動地形学に基づく手法は用いられてこなかった。電力
会社や保安院は、変動地形学の手法を用いなくても、活断層の有無は確認できると考えていたか
らだ。
 ところが近年、変動地形学の手法で再調査した結果、存在しないと判定されていた活断層が次
々と発見されていたのである。
 地震発生後のことだが、柏崎刈羽原発でも、周辺海域のデータを変動地形学の手法で分析した
ところ、当初、東京電力がごく短い断層だと判定していたものが、実は巨大な活断層の一部分だっ
たことなどが明らかになった。再調査に携わった研究者は、「当時なぜこれほど断層が過小評価さ
れ、国もそれを認めたのか疑問だ。新たな調査も必要だが、その前に当時のデータをすべて公開
し、なぜ短いと評価したのかについて説明責任を果たすべきだ」と、憤りを隠さない。
 同じく変動地形学の手法を用いて、島根原発(中国電力)の近辺に活断層が存在することを確認
した別の研究者は、あきれ顔でこうコメントしている。「私たち活断層研究者の多くは、原子力の世
界でそんな科学的とは言えない方法で活断層を調べていることを最近まで知らなかった」
 電力会社や政府が声高に唱えてきた原発の安全性とは、専門家から「科学的とは言えない方
法」と酷評されるほどいい加減な調査に基づくものだったのである。
 この本では、原発の耐震指針改定の経緯も詳しくレポートされている。耐震指針には当局の責
任逃れの意味しかないという武田邦彦の批判をすでに紹介したが、この本の第3章(「揺れる耐震
指針」)を読めば、そんな単純な話ではないことが分かる。
 原発の耐震指針が改定されることになったきっかけは阪神大震災だった。断層地震の予測の難
しさと、それまでの耐震強度では不十分であることが、阪神大震災で明らかになったからだ。
 指針改定の狙いは、それまでの硬直的な耐震指針のあり方を改めて、予測が困難な断層地震
のリスク(=残余のリスク)を含めた形で原発の安全基準を考え直すというもので、科学的にもちゃ
んとした妥当性がある(武田は「残余のリスク」という言葉のあいまいさに不信感を抱いたようだが、
地震の専門家ではなかったことからくる誤解があったのかもしれない)。
 その後、耐震指針の改定から1年も経たないうちに柏崎刈羽原発が激震に襲われたことで、旧
指針の破綻は誰の目にも明らかになった。
 日本の原発安全神話は今回の事故が起きる何年も前にすでに崩壊していたのである。
 この本によると、中越沖地震の数日後、英国紙タイムズは、「ツナミ、カミカゼ、ヒロシマ。日本は
世界に数々の『死の言葉』を提示してきたが、今また恐怖の言葉を加えようとしている。ゲンパツ・
シンサイだ」と前置きした上で、日本国内でもっとも危険な原発として、「ハマオカ」を名指しした記事
を掲載したという。
 海外の目には、柏崎での経験がありながら福島原発での事故を回避することができず、福島で
メルトダウン事故を起こした後になってようやく浜岡原発を停めた日本という国は、よほど学習能力
に欠けた国だと映っているに違いない。

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