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【150】 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡について
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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以上、一中健児隊の行動範囲にある首里城周辺の遺跡について述べたが、今後、県土木部と養秀同窓会との合議によって、首里城台地南斜面の公園化によって、これら遺跡が不注意によって損壊され、埋没されないように、願いつつ、まとめました。参考資料としては、①田村洋三著「沖縄一中鉄血勤皇隊」光人社刊。②兼城一著<証言・沖縄戦>「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録」上・下。高文研。最後に、小生たち「最後の一中生」有志が、健児の塔前の石庭に設けた竹垣に添えられた詩文を書いておきます。「岩のかげ 川のほとりに 紅の 蕾のままを 拾いて祀る」、「南冥の 果てに散りにし 若桜 いま帰り咲け 友垣の上に」。
【149】 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑪ 第五砲兵司令部壕跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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「天界寺マーチュー」と呼ばれたこの断崖には、王府時代古墳が並んでいたといわれているが、尚敬王時代、蔡温(1700年代の摂生)の墳墓撤去令によって整理され、洞窟が残された。沖縄戦時、第32軍㈹砲兵部に使われ、沖縄一中鉄血勤皇隊通信班が配置された。1945年(昭和20年)、5月13日の米軍の艦砲射撃によって、内部に保管されていた対戦車急造爆雷が誘爆し、健児隊員3名が即死した。
【148】 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑩ 「日本一の卒業式」式場跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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昭和20年3月27日午後8時から、一中57期生と58期生の合同卒業式がこの地点で行われた。藤野校長ほか職員と第32軍の参謀、高級副官も参列。島田叡知事も駆けつけ、卒業する5年生、4年生と、見送る3年生が整列した。ただ一つ灯されたランプの周りに、艦砲射撃の標的にされないように、生徒数名が立ち、光を覆っていた。島田知事が、暗闇の中で低い声で祝辞を述べた後で、「敵前で挙行される本日の卒業式は、我が国の歴史に前例のない日本一の卒業式である」と結んだ。最後に第5砲兵司令部の佐野副官が「高等教育を受けた諸君を、軍はこれから下級士官もしくは上級下士官相当の戦闘能力を有する者として入隊を許可する」と述べ、文字通り「校門は営門に通ずる」事態となった。
【147】 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑨ 勤皇隊最初の犠牲者埋葬の地
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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昭和20年4月12日、午後9時過ぎ。地響きとともに爆発音が轟き、養秀寮が火を噴いた。篠原隊長は隊員と共に駆けつけたが、建物はすでに火が回り、手の付けようかない。その火の手を目がけてさらにチービシ(那覇の沖3キロにある浅瀬)からの砲撃が集中。寮は全焼した。焼け跡から、たまたま寝泊まりしていた勤皇隊3名が痛ましい姿で収容された。篠原隊長らによって、3名はこの地に埋葬され、「陸軍上等兵の階級を墨書した三寸角の手作りの墓標」が建てられた。戦後、3名の遺骨は、親族によって丁寧に収骨された。
 
【146】 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑧ 「養秀寮」炎上
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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昭和15年(1940年)、県立一中創立60周年記念事業の一環として、多くの寄付を集めてこの地に建設された「養秀寮」。その後、5年間、主として遠隔地出身の中学生の寄宿舎として経営され、幾多の秀才を育んできが・・・。昭和20年米軍の上陸に引き続く激戦に集中砲火を浴び、那覇沖の神山島(チービシ)から飛来した砲弾によって、4月12日、ついに炎上。その日、たまたま寮内にいた鉄血勤皇隊員2名が焼死体となって発見された。勤皇隊最初の犠牲者となった遺体は篠原教官と学友によって、この場所に仮埋葬された。戦後、生き残った学友によって遺骨が掘り出され、それぞれの遺族に預けられ、供養された。
【145】 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑧ 養秀寮跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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1940年(昭和15年)、日本全体が紀元2600年を祝う記念行事に沸いていたとき、一中では、創立60周年の記念行事として学生寮の建設が進んでいた。金城町一番地にあった當山家の敷地4950平方メートルの土地代を含めた総工費4万円は、交友会(現在の同窓会)、父兄会など多くの有志の協力で、確保された。そして、12月9日木の香も新しく木造二階建て600平方メートルの「養秀寮」が完成、落成式が行われた。養秀寮正門の左には「沖縄県立第一中学校養秀寮」、右には「興亜学徒錬成道場」と墨書された看板が掲げられた。その後5年間は、平和時の錬成が続いたが、戦時の荒波がこの寮を襲い、多くの犠牲者を生む修羅場となることを誰も予想できなかった。
【144】 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑦ 医務室壕跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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米軍上陸に備えて日夜三交代で掘り進められた壕。隆起サンゴ礁石灰岩からなる厚さ5メートルほどもある岩層の下の粘板岩は硬く、ツルハシだけでの掘削は難渋した。栄養不良と過労から、やがて隊員たちにアメーバ赤痢にかかる者が続出。治療のために絶食させられた隊員たちは、この自然壕に運ばれ,静養させられた。これらの自然壕は、昔、庶民の墓として掘られて利用されていたものだが、尚敬王の時代(1@@@年代)、宰相蔡温の指示で撤去させられた古墓であった。首里城台地の南斜面には、このような古墓がいくつも現存する。
【143】 一中健児隊遺跡 ⑥ 教導兵詰所跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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教導兵に顔が腫れ上がるほど殴られ、「俺たちだってお国のために戦っているのに・・・」と泣いて悔しがった隊員。「戦闘になったら、後ろから手榴弾を投げてやる」と恨む隊員さえ出始めた。 壕内の空気は日に日に険しくなった。ある日。隊員の一人が、篠原隊長に状況を報告した。隊員が寝静まった深夜、隊長は、第二小隊壕前(篠原坂)に教導班9人を整列させ、いきなり一人一人張り飛ばしていった。「俺が貴様らにビンタを飛ばす理由は、言わずともわかるだろう。鉄血勤皇隊はこの戦争でわれわれと共に戦い、共に死んでいく身だ。それを貴様らは訓練・指導に名を借りて痛めつける。少しは労わってやれ。以後、私的制裁は厳禁する」。
【142】 一中健児隊遺跡 ⑤ 教導兵詰所跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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鉄血勤皇隊全員に軍装・装備が支給された昭和20年3月29日、勤皇隊を兵員として訓練・指導するため、第5砲兵司令部から9名の教導兵が派遣されてきた。班長の渡辺見習士官は温厚で人格者だったが、残りの古参兵は、至極獰猛な性質で、しばしば一中生を殴り飛ばした。教導兵の横暴と苛烈な体罰はk戦火に比例して激しさを増していった。「お前らは、あと6ッか月もしたら幹部候補生になり、われわれの上官になる身だから、今のうちに気合いを入れておいてやる」。絶望的な戦いを控えてのやり場のない鬱憤晴らしを、年端もいかない少年兵(勤皇隊員)に向けたのである。
【141】 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑤ 銃器庫跡
- 最後の一中生 組 吉田朝啓 () <chokei@nirai.ne.jp> 削除
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第三小隊壕東側のこの地点に、古い墓の岩穴(現存)があり、勤皇隊の銃器が収納されていた。九九式歩兵銃、小銃弾、手榴弾、時代遅れの三八式歩兵銃は、教練用の古い銃など、貧弱そのものだったが、五月に入り、いよいよ米軍の前線が首里に迫った頃、敵戦車への体当たり作戦のために、対戦車用三式手投げ爆雷(重さ3キロの円錐形で、手首に紐を巻いて投げると点火・爆発する肉薄攻撃用兵器)などの急造爆雷が持ち込まれた。生徒一人ひとりは、蛸壷から飛び出して敵戦車に爆雷と共に飛び出していく肉弾攻撃に参加した。
 
 
 
 
 
おきなわ野球大好き
最終更新日 2024/05/06 17:21:31
 
 
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