沖縄県立首里高等学校:一中時代 掲示板

No.150 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡について

2014/10/23(木) 15:11 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
以上、一中健児隊の行動範囲にある首里城周辺の遺跡について述べたが、今後、県土木部と養秀同窓会との合議によって、首里城台地南斜面の公園化によって、これら遺跡が不注意によって損壊され、埋没されないように、願いつつ、まとめました。参考資料としては、①田村洋三著「沖縄一中鉄血勤皇隊」光人社刊。②兼城一著<証言・沖縄戦>「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録」上・下。高文研。最後に、小生たち「最後の一中生」有志が、健児の塔前の石庭に設けた竹垣に添えられた詩文を書いておきます。「岩のかげ 川のほとりに 紅の 蕾のままを 拾いて祀る」、「南冥の 果てに散りにし 若桜 いま帰り咲け 友垣の上に」。

No.149 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑪ 第五砲兵司令部壕跡

2014/10/23(木) 14:56 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
「天界寺マーチュー」と呼ばれたこの断崖には、王府時代古墳が並んでいたといわれているが、尚敬王時代、蔡温(1700年代の摂生)の墳墓撤去令によって整理され、洞窟が残された。沖縄戦時、第32軍㈹砲兵部に使われ、沖縄一中鉄血勤皇隊通信班が配置された。1945年(昭和20年)、5月13日の米軍の艦砲射撃によって、内部に保管されていた対戦車急造爆雷が誘爆し、健児隊員3名が即死した。

No.148 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑩ 「日本一の卒業式」式場跡

2014/10/23(木) 14:47 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昭和20年3月27日午後8時から、一中57期生と58期生の合同卒業式がこの地点で行われた。藤野校長ほか職員と第32軍の参謀、高級副官も参列。島田叡知事も駆けつけ、卒業する5年生、4年生と、見送る3年生が整列した。ただ一つ灯されたランプの周りに、艦砲射撃の標的にされないように、生徒数名が立ち、光を覆っていた。島田知事が、暗闇の中で低い声で祝辞を述べた後で、「敵前で挙行される本日の卒業式は、我が国の歴史に前例のない日本一の卒業式である」と結んだ。最後に第5砲兵司令部の佐野副官が「高等教育を受けた諸君を、軍はこれから下級士官もしくは上級下士官相当の戦闘能力を有する者として入隊を許可する」と述べ、文字通り「校門は営門に通ずる」事態となった。

No.147 沖縄一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑨ 勤皇隊最初の犠牲者埋葬の地

2014/10/23(木) 14:33 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昭和20年4月12日、午後9時過ぎ。地響きとともに爆発音が轟き、養秀寮が火を噴いた。篠原隊長は隊員と共に駆けつけたが、建物はすでに火が回り、手の付けようかない。その火の手を目がけてさらにチービシ(那覇の沖3キロにある浅瀬)からの砲撃が集中。寮は全焼した。焼け跡から、たまたま寝泊まりしていた勤皇隊3名が痛ましい姿で収容された。篠原隊長らによって、3名はこの地に埋葬され、「陸軍上等兵の階級を墨書した三寸角の手作りの墓標」が建てられた。戦後、3名の遺骨は、親族によって丁寧に収骨された。

No.146 一中鉄血勤皇隊遺跡 ⑧ 「養秀寮」炎上

2014/10/23(木) 14:23 - 最後の一中生 組 吉田朝啓 () chokei@nirai.ne.jp
昭和15年(1940年)、県立一中創立60周年記念事業の一環として、多くの寄付を集めてこの地に建設された「養秀寮」。その後、5年間、主として遠隔地出身の中学生の寄宿舎として経営され、幾多の秀才を育んできが・・・。昭和20年米軍の上陸に引き続く激戦に集中砲火を浴び、那覇沖の神山島(チービシ)から飛来した砲弾によって、4月12日、ついに炎上。その日、たまたま寮内にいた鉄血勤皇隊員2名が焼死体となって発見された。勤皇隊最初の犠牲者となった遺体は篠原教官と学友によって、この場所に仮埋葬された。戦後、生き残った学友によって遺骨が掘り出され、それぞれの遺族に預けられ、供養された。

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